仲正昌樹の『モデルネの葛藤』のなかに、ノヴァーリスの『花粉』からデリダの『散種』へという案内があったので、『花粉』につづいて『散種』も読んでみた。
ノヴァーリスの唱えた聖書に連なる百科全書的な世界で一冊の書物から、マラルメの書物を経由して、デリダ自身とデリダに読まれ読ませるものがともにする終わりなきエクリチュールの実践が本書『散種』では体感できる。書物と書物外の境界を確定しながらも外へ拡げ内にも折り返し思考と言語の活動が浸食繁茂していく様子は、初見では見通しが効かない自由度の少ない新規ルート開拓作業で出あうもののようで、なかなか骨の折れる実地調査、読書体験となる。
4つの論考から成る『散種』は序文の「書物外」がほか3つの論考の本文をときに取り込むようなキアスム的な構成になっていて、一冊の書物としての構成力と凝縮度が極めて高いものになっているように感じた。頭から本文だけ読むというだけでは気づかないことも多いので、原注と訳注を合わせ読みながらデリダの狙いを感じていくべきだと気づき、読む速度は落とした。特に序文の「書物外」は錯綜しているので、気長に読んだ方が良い。一度しか読み通していないのにこんなことをいう資格はほぼないのだが、腰を据えて言葉の親しみあるいは逆にその深みある恐ろしさを感じるようになるのが、本書に対してのいい付き合い方なのだろうと思う。
各論考で言及されているものをピックアップしていくと次のようになる。
【書物外 序文】
ヘーゲルの各著作の主に序文、ロートレアモン、ノヴァーリス、マラルメ、
【プラトンのパルマケイアー】
ポリティコス、パイドロス、ティマイオス、国家、ソピステス、法律 ほか
プラトン、ルソー、ソシュール
【散種】
フィリップ・ソレルスの四部作『公園』『ドラマ』『数』『ロジック』、マラルメ『賽子の一擲』、ジョイス
デリダの著作は数多の人々が言及していることから分かるように、哲学および批評活動として稀有な実践であることは間違いない。ただ、その果実を味わうには、相当な咀嚼力と胆力が必要なことは覚悟しておかなくてはならない。
デリダの「二重の会」におけるマラルメは、テマティスムを貫く批評家リシャールが案内してくれるであろうマラルメよりも踏破する領域は広いかもしれないのだが、そうそう簡単に魅力的だとはいえない読解対象であり、文芸的に準備なしに鑑賞可能な人物からは外れてしまっている。マラルメを直接読んで、その不穏な感触に美的に圧倒される経験をしたものに対してはまだしも、マラルメを知らない読者層には何のことやら分からない言説だと思う。
デリダの他の書物、たとえば『エクリチュールと差異』で語りの対象となる作家や著作であれば、デリダからの案内で入門することも可能かもしれないが、この『散種』は、あるいはデリダの最初期著作には入らない、案内的な配慮が背後に引いた著作や論考から、デリダ以外の著述家に素直かつ無防備に入門するのはほぼ不可能になっていると思う。デリダの著作で新しく知ったことを拡げようと思ったら、デリダの見解をまず保留しておいて、入門的なところ、あるいは初読の直観と相性を信じたほうが良い。読むことで生まれる今現在の自分の意見や感想が、生まれた瞬間から一掃されてしまうのはかなり辛いものであるから。
※デリダによる初学者への導きの過酷さを考えると、あえてデリダによる批判対象からの入門という道筋も見えてくる。マラルメに着火する契機としては、どう考えてもデリダよりもリシャールのほうが正しい。最終的な踏破領域がデリダ自身がいうようにリシャールよりデリダのほうが広いとしても、初学の文芸愛好家にとってはリシャールのマラルメ案内のほうが心に響く。ほかの書物も見わたしてみての感想でいうと、感応領域を共にするとデリダが考えているロラン=バルトとデリダにおけるバルトよりの感性のほうが読者は感応しやすい。いちばんちがうのは学問的素養の有無、学問領域的差異に関する感受性を前提としているかいないかの差であろう。デリダはどう足掻いても学問側の人であって、芸術一本で世俗を説得できる人ではない。本来芸術よりの心性を持つ人であるのに、あるいはそうであるがゆえに、極端に芸術的かつ防御的に語るところが厄介といえば厄介。
デリダ自身の内的必然性から繰り返しつつ強度を増して放たれる論考に圧倒されつつも、どこか驚きに欠けるパターン思考、脱構築的再回収による拡張世界の確認に終わっているのではないかという、外部視点での軽薄な感想が湧いてきて拭えないというのが読後の状況である。
これほど読者に面倒くさいと思われる作者もいないのではなかろうか。そういう点ではデリダは稀有な作家であり、新たに書物を問うごとに、盲点や脆弱点を執拗に検証点検する面倒くささと改修改良に賭ける専門職の意気込みを見せつける、究極ではあるが独善的に成果を打ち出す職人気質の批評家的作家であるように思う。
デリダ自身に対する閾の高さは減らしようがないとしても、デリダ紹介者にはもうすこし変わった毛色の人がいて目立ってきてもいいような気はしている。知らないだけかもしれないが、デリダを超えようとするデリダ読みが日本に出てきても何も問題はないので期待する。
※ドゥルーズ読み、ついでフーコー読み、その次にデリダ読みと来ていいはずだが、東浩紀以降日本のデリダ読みを不勉強にして知らない。東浩紀も体質が違うためかあまりピンとこないのだが、デリダ系列をいたるところで生んでみることも必要ではないかと思う。大学の学問の外からみると、そんな風に思ったりもする。
それ自身から遠ざかり、そこで自らの全体を、ほとんど余すところなく形作りながら、エクリチュールは一挙に、負債を否認すると同時に承認する。署名ははなはだしく崩壊する。中心から遠く離れて、さらには中心にあって分有されているもろもろの秘密からも遠く離れて、それらの灰と化すまでに、散逸する。
( 献辞 p592 )
さらにつづけて「そこに灰がある」と締めくくられた『散種』は、その言葉をもって次のデリダの書物につづいている。終わりなき言葉、ロゴス、エクリチュールの連鎖。読み手は肯定的に連結するか、否定的に連結するかのいずれかで、連鎖を断ち切るという振る舞いは選択肢には上がってこない。
※全体的な印象:
ノヴァーリスの『花粉』が花粉が受容される草原を思い浮かばせるなら、デリダの『散種』もそれに似た受容の地を想起させてもいいはずなのだが、なかなかイメージに合わない。デリダ的な散種は、牧歌的な芽生えというよりも暴力的な芽生え、雑草、あるいは地衣類、菌類などの暴力的にも見える力強い繫殖力に親和的だ。食い散らかしてしまうかもしれぬ雑食性、変容を止め得ない雑交性、それらを無軌道のまま放置するのではなく、一定の方向性のもとに視界に収め、増殖に付き、収め放っていく。動きやまぬ運動に寄り添う思考は、ともすれば拡張に向かう同一の方向性によりがちではあるが、そこに同一性だけを見ても期待できる実りはそうはない。個別の実りの差異と、結実の確かな同一性をふたつながらに味わうのが自然な流れなのではないかと思う。
【付箋箇所】
20, 24, 36, 72, 75, 80, 83, 86, 127, 142, 146, 150, 158, 171, 174, s176, 192, 219, 260, 269, 273, 348, 397, 405, 422, 454, 458, 499, 514, s519, s537, 539, 541, 553, 555, 584, 592
目次:
書物外 序文
プラトンのパルマケイアー
Ⅰ 1.パルマケイア
2.ロゴスの父
3.息子たちの書き込み──テウト、ヘルメス、トート、ナブー、ネボ
4.薬物=魔法の薬(パルマコン)
5.呪術師(パルマケウス)
Ⅱ 6.犯罪者=人身御供(パルマコス)
7.成分──白粉、幻影(ファンタスム)、祝祭
8.パルマコンの遺産相続──家族の光景
9.戯れ──パルマコンから文字へ、そして失明から代補へ
二重の会
Ⅰ
Ⅱ
散種
Ⅰ
1.始動
2.装置あるいは枠
3.切 断
4.大現在の二重底
5.ÉCRIT、ÉCRAN、ÉCRIN
6.立ち会いの言説
Ⅱ
7.最初の前の回
8.円柱
9.「東=ある」の四つ角
10.接ぎ木、縁かがりへの回帰
11.超過数
藤本一勇
1966 -
ジャック・デリダ
1930 - 2004