哲学者アラン・バディウがいうところの「反哲学」とは、知的な至福の可能性と真理をめぐる思考である哲学の信用を失墜させるような仕方で同定した上で、哲学とは異なった思考の布置の到来であるような「行為」を引き受ける思考のスタイルを指していて、バディウによると反哲学者としてはパスカル、ルソー、ニーチェ、キルケゴール、ヴィトゲンシュタインなどが該当する。本書で取りあげられるラカンはニーチェ、ヴィトゲンシュタインにつづいて取り上げられた反哲学的思想家で、ラカンを講じた翌年は反哲学者の最初のひとり聖パウロが取り上げられて、四年にわたる「反哲学」セミネールは閉じられている。
数学は思考であるとして数学の哲学を思考の芯に据えるバディウが言及する反哲学者としてのラカンで、もっともバディウらしいラカン像があらわれていると思われるのは第四講でマテーム(数学素)を論じているところ。
数学的な真理の形式的な空虚性、あるいは数学の偽真理に、ヴィトゲンシュタイン的な極度に審美的な次元ないしニーチェ的な極度に政治的な次元における意味の沈黙が対置されるかわりに、意味の容赦なく宗教的な性格にマテームの道が対置されます。まさにこの点において、哲学は宗教との共謀を告発されます。それが数学を取り扱う仕方において、この告発はなされるのです。なぜなら哲学は、数学を執拗に、意味の次元に据えようとするのですが、結局のところ意味はつねに宗教的であって、数学の範例的な価値は、いかなる意味も持たない思考の比類ないモデルであるという点にあるからです。
(「第Ⅳ講」p147 )
数学的視点から哲学と宗教のひそかな結託を暴いていくラカン。思想家としてバディウに大きな影響を与えたラカンがここでは浮かび上がってくる。
ほかに精神分析の臨床の場に立つラカン像としてもっとも鮮やかだと私が思うのは、第六講から第七講にかけて、キルケゴールの『あれか、これか』における出口のない状況にあっての選択の選択と、ラカンの分析的治療の現場における象徴化の出来が、類似したものとして語られているところ。
無力が――広い意味での要求の起源である無力が――存在することの不可能性へとひとたび変形されると、行為の地点において、一個の〈主体〉とその現実的なものとの接続が生じるのです。
(「第Ⅶ講」p251 )
哲学的著作ばかりでなく小説や戯曲を書き、芸術論も多く書いているアラン・バディウの魅力として、作家的気質を多く持つ人物へのオマージュ的言及の輝きがある。本書においてはラカンと並んでキルケゴールの著作がたいへん興味深いものとして取り上げられているので、その導きに従って読みすすめてみたいという思いがじわじわと湧いてくる。「形式的な空虚性」といい「無力」といい、通常否定的イメージに沈んでいる語句が、反転して別種の光を放つようになる論述には、新鮮な驚きがある。
【付箋箇所】
10, 19, 34, 47, 74, 78, 86, 90, 98, 109, 133, 141, 147, 186, 190, 195, 196, 202, 208, 230, 232, 235, 237, 245, 249, 251, 255, 305, 322, 325
ジャック・ラカン
1901 - 1981
アラン・バディウ
1937 -
原和之
1967 -