読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャック=アラン・ミレール編 ジャック・ラカン『不安』(セミネール第十 1962-1963 原著 2004, 岩波書店 2017 上下全二巻)

欲動のもとめる対象「対象a」あるいは「小文字の他者」をめぐる本格的考察が展開されることになる起点となったラカンセミネール。聴講対象者はラカン派の分析家で、セミナールも10年目となると、前提されている知識が多くてなかなか全体像がつかみにくい。さらに、メビウスの輪からはじまり、クロス・キャップやクラインの壺など位相幾何学トポロジー)の学知からの分析があったり、フロイトを中心として多くの精神分析学の文献げの言及があったり、多くの哲学作品や文学作品への参照があったり、絵画作品や仏像の眼差しへの言及があったりで、ラカンの語りの幅広さと奥行きとを、ひととおり体験するので精いっぱいというのが正直なところだろうか。一度目であれば、馴染んでいくことがまずは大切と考えて、また次のラカンセミネールにすすみ、またいつか戻るということをくりかえすことが必用なのだろう。

理解可能で気になったところをピックアップすると、意外と当たり前のようなことであったりするので、その分りやすいところから、ラカンの分かりずらいところに切り込んでいけるようになったらいい。

規則どおりにゲームがなされないということ、まさにこれが怒りを呼び起こすのです。(1「シニフィアンの網の中の不安」上巻 p20 )

 

すべての正常規範(ノルム)が突然なくなってしまったら、(中略)まさにその時、不安が始まります。(3「宇宙から「不気味」なものへ」上巻 p62 )

 

原則として、信号は居あわせているもの者としての私に向けられてはいません。それは、いわば来たるべき者としての私、さらには、失われた者としての私に向けられています。(11「欲望に句読点を打つこと」上巻 p234 )

 

欲望の欲望であるものとしての欲望、つまり誘惑は、そのもっとも原始的な機能における不安へと我々を導きます。(24「aからいくつかの〈父の名〉へ」下巻 p272 )

 

 

自分自身や身近にいる人を分析することはできなくても、距離を置いて観察検討するきっかけになる言葉が詰まっているのがラカンセミネールの魅力であろう。

www.iwanami.co.jp

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【付箋箇所】
上巻:
6, 20, 55, 62, 81, 97, 117, 119, 125, 132, 178, 180, 181, 182, 192, 194, 197, 203, 210, 233, 234
下巻:
8, 25, 30, 54, 57, 58, 94, 99, 103, 104, 109, 118, 131, 132, 166, 167, 179, 188, 189, 204, 208, 216, 220, 235, 244, 250, 269, 272, 274

目次:

【上巻】
不安の構造への導入
Ⅰ シニフィアンの網の中の不安
Ⅱ 不安、欲望の記号
Ⅲ 宇宙から「不気味なもの」へ
Ⅳ 去勢不安の向こう側
Ⅴ 騙すもの
Ⅵ 騙さないもの

対象の境位、再考
Ⅶ それをもたないではない
Ⅷ 欲望の原因
Ⅸ 行為への移行と「アクティング・アウト」――身を投げること、そして舞台に登ること
Ⅹ 還元不能の欠如からシニフィアン
XI 欲望に句読点を打つこと

【下巻】
不安 享楽と欲望の間
XII  不安、現実的なものの信号 
XIII 愛に関するアフォリズム 
XIV  女、より真実の、そしてより現実的なもの
XV  雄の要件

対象aの五つの形
XVI  仏陀の瞼
XVII 口と眼
XVIII ヤーヴェの声
XIX  消えゆくファルス――去勢不安からオルガスムスへ
XX  耳から入るもの
XXI ピアジェの水栓
XXII 肛門的なものから理想へ
XXIII 点に還元できない円について
XXIV aからいくつかの〈父の名〉へ 

 

ジャック・ラカン
1901 - 1981