読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

会津八一(1881-1956)『會津八一全歌集』(中央公論社 1986) ひらがな表記と語の分かち書きで伝える近代短歌の特異な詩的表現世界

昭和26年(1951年)の生前全歌集の886首に、拾遺作品264首を新たに付加した一冊(全1150首)。文庫本で手に入りやすい『自註鹿鳴集』よりも歌人の活動期間をより広くカバーしている。活動期間のわりに詠まれた歌の数はそう多くなく、一首一首に推敲を重ね彫琢した様子がうかがわれる作品が多い。万葉集良寛正岡子規を好み、自身の歌風も万葉的な写実優位の詠いぶり。比較的身近な動植物や古寺仏像など詠われる対象もわりと限られているが、個々の歌の味わいは清々しくしかも深いものが多い、そして會津八一のいちばんの特徴はひらがなの表記と語彙単位での分かち書きで、これはなかなかほかでは見られない独特な印象を歌に添えている。

歌人自身の言葉によると、詩歌というものはもともとは口誦されたものを耳で聞きとるのが本来的な姿であって、文字によって鑑賞されるのは時代が下り書字が導入されてからのことで、そのために本来的な音韻声調を軽視するようになるのであれば、由々しき事態であり、その傾向に掉さすためにひらがな表記を選択するに到ったということである。また語分かちの表記も歌の声調を明らかにするための手法として取り入れられている。書家でもあった會津八一の歌碑の図版などを見ると、草書体のひらがな表記ではあるが語分かちはされていないので、印刷物としての歌集のみで採られた表記法のようである。

ひらがなの語分かち表記の會津八一の歌を読んで、実際に感じるところは、漢字の表意性に頼ることができないために、歌を読む速度が格段にゆっくりになることと、空白によって語が独立して配置されていることによる言葉の物質的存在感の強調という、大きく二つの異質感である。ひらがな表記であるので目にはやわらかに映りながら、意味変換と鑑賞の時間的コストが増大するので、かえって浸透度と定着度が増して、滋味豊かに感じられる。また、漢字かな交じりの詞書が挿入されているので息つく間はままあるものの、見開き2ページに並べられた歌10首がすべてひらがなで占められているところなどに出会うと、不思議な異国感のようなものも湧き上がってくる。文字言語をおぼえはじめたばかりのような、すこし危うげな書字体験を反復しているような錯覚も出てくる。変わった読書体験になることは間違いない。記憶をたどると、石川啄木のローマ字日記を読んだ時と似たような感覚だろうか。新潮文庫岩波文庫の『自註鹿鳴集』も本書と同様にひらがな語分かち書きで歌が表記されていたが、今回のような不思議な感覚があまり残らなかったのは、漢字かな交じりの自註の分量が多かったことと、収録歌数が本書のほうが多いためであるからだろう。日本語が外国語化されているような変わった感覚を味わいたいのであれば、本書『會津八一全歌集』を選択したほうが良い。


ほろび ゆく ちとせ の のち の この てら に いづれ の ほとけ あり たたす らむ

 

さきだちて さら や くだけむ もの かきし われ や くだけむ よ の なか の みち

 

もの よみ そ もの な かたり そ もの もひ そ こころ かそけく こもらせ と こそ

 

さき はてて ひとひ の うち に うつろへる ましろき はな の こころ を ぞ おもふ

 

あかあかと いりひ は もゆる わが やど の もの なき へや の しろき ふすま に

 

秋艸道人会津八一
1881-1956

 

参考:

uho360.hatenablog.com