読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

谷川敏朗『校注 良寛全詩集』(春秋社 2005, 新装版 2014)

谷川敏朗の良寛校注三部作のうちではいちばんの力作。良寛自身も俳句や歌に比べれば、漢詩に傾けた時間やもろもろの思いはもっとも大きいのではないかと考えさせられる一冊。寺子屋や学塾に通った時代から、世俗的世渡りの要求に応えられずに出家したあとの修行と放浪の時代を経て、故郷に戻り地縁に助けられながら、本懐を遂げる遂げないに揺れる生を送らせてもらったなかでの詩作を、本詩、釈文、校異、現代語訳、語釈と解説文とに分けて、多角的重層的に辿っていけるように用意された充実の仕事である。
現代においてはガイドなし準備なしでは容易に近づくことができない漢詩の世界ではあるが、つい200年前まではそれが文芸のひとつの主流であったことは記憶に止めておいてよいことだろう。四書五経の中国古典を幼少期から刷り込まれるようにして学び、その後もほかに娯楽も物珍しい研究もない状況で、限られた領域での考究が徹底されたなかで醸成された詩文の意味合いの解釈は、もはや研究者層でしか直観的には理解できないレベルになってしまっている。都度教えられなければ分からない前提や参照元が広く深い。近代の我々が知らないだけの、もしくはとりあえず棚上げできていると思っていることの、終わったものとして執拗に存在している廃棄出来ない残余としてのなにものかの一端が本書にはパッケージングされている。気になる漢詩に出会ったときの現在の感覚の蠢きが、過去のより吟味され洗練された感覚の蠢きに触れて呼び出してくる。自分自身の直接の探究でなくても、先行者の探究が、言語使用の歴史的深みを眼前に浮上させてくれる。
有難くも恐ろしいことではあるが、下降史観に立てば至って当たり前のことでのあるので、そこは耐えつつ歴史を見る。知られていたことが知られなくなり、地の塩の味を見分けることができないなか、新たな味覚とともに古い時代の味覚の存在意味を、別世界というよりも並行世界として隣り合わせる、その領域を維持継続する力が本書にはある。日本の江戸後期の越後の変わり者が、憧れと失望とともに生き抜いた思想言語世界。良寛自身だけではなく、それを読む者も、求道の迷いと悟りのあわいに落とし込む危険がまったく消えていない、詩歌の恐ろしくも甘美な世界が広がっている。
文芸の世界は、救われるか救われないかは全く分からないので浄土門ではないし、個人の今ここにおける悟道の世界とも違うと思うので、迷いながら迷う先を更新していく終わりなき世界だと思いながら、ずぶずぶと深みにはまり、気がつけば浅瀬で喘ぎつつ、しばし息をつく幸せを喜び、また窒息の恍惚に瞬間的に触れるというような、平常心と倒錯が交差する扱いづらい力動の場であるのではないだろうか。そのような場を生き抜いた人物として良寛がいるとすれば、それは参照するに値する人物であることに疑いはない。

たとえば何でもない詩ともいえるが、こんな詩に立ち止まってみるとき、一瞬にして時空は歪んでしまう。

15 春暮

【読み下し文】
芳草萋々 春将に暮れんとし
桃花乱点 水悠々たり
我も亦従来 忘機の者なれど
風光に悩乱して 殊に未だ休せず

【現代語訳】
かぐわしい草花が茂って、春はまさに過ぎ去ろうとしており、桃の花びらが川面に散って、川の水はゆったりと流れている。わたしもまたもともと僧として執着から離れた者であるが、この晩春の風景に魂を奪われ心をやすめることができないでいる。

本詩の語釈解説では、初句の「芳草萋萋」について、中国の詩人崔顥の「黄鶴楼」の句「芳草萋萋鸚鵡洲」への参照が指示されているが、素人はそんなことは知らないから、指摘されなければただ読みすすむだけで、なにも思わないが、指摘されれば先行作品の厚みが出てきて、鑑賞の仕方も当然ながら少し変わってくる。

 

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谷川敏朗
1929 - 2009
大愚良寛
1758 - 1831