読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

訳: 加藤精一『空海「弁顕密二教論」』(ビギナーズ 日本の思想 角川ソフィア文庫 2014)

顕教密教の違いを説く空海の書。仏陀法身、応身、化身の三身に分けたときに、法身大日如来が直接説かれた教えを密教法身大日如来から派生的に現じた応身化身の諸仏が、教える相手によってさまざまに説き分けた教えを顕教とした、空海独自の教論。大日如来一元論から仏教各宗派を序列体系づけたところにほかの仏者にはない空海の思考の強靭さがあらわれている。その空海の帰国後まもなく書かれた密教護持普及の足がかり的作品。すべてはこの虚空に遍満する大日如来の一部であると説く空海の説はたいへん魅力的なのだが、21世紀の読み手からすると遍満する場としての虚空や大日如来の一部であるところの衆生の属性たる無明無知はどこからどういう具合に紛れ込んでいるのかよくわからないところに信者として没入できない疑問が残る。また大日如来がわれわれ衆生と同じ人格を持った存在であるという擬人化も信者以外には呑み込みにくい力点である。しかし、そのなかなか受け入れがたい教えの前提部分にもかかわらず、空海の思想に今でも魅力があるのは、現代日本の知識層の一傾向として華厳の事事無礙法界に現今の閉塞感を突破する発想を求めている先の世界を提示しているところがあるからだ。それが密教曼荼羅世界であり、曼荼羅としての我を観ずることで導かれる即身成仏の世界である。すべては大日如来の一部であれば私が仏であることは何の特別なことではないのだが、それでも特別でない世界を生きていることを実感する不思議は知の取っ掛かりがないとなかなか味わえない稀なことであると。この不思議は空海の著作や解説書を読んでいくと一般読者層であっても霞んだなかにぼんやりと感じられてくる。鮮明に感じられるという方もいるかもしれないが、ぼんやりとしているくらいのほうが無明と付き合いながら生きるにはちょうど良いのではないかと思ったりもする。

 

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加藤精一
1936 - 
弘法大師 金剛遍照 空海
774 - 835