読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

鈴木大拙+古田紹欽 編著『盤珪禅師説法』(大東出版社 1943, 1990)

不生禅の盤珪の重要性を見出し道元観照禅と臨済看話禅との違いを説いた鈴木大拙の手になる盤珪禅への導入書。先行して出版されている岩波文庫鈴木大拙編校『盤珪禅師語録』(1941, 1993)をベースに、よりコンパクトにまとまった原典紹介がなされている。1990年の新装版では旧漢字が新漢字に改められより読みやすくなっている。岩波文庫版との最大の違いは鈴木大拙の論考「不生禅の特徴につきて」が収録されていることで、この論考によって鈴木大拙が考える道元禅と臨済禅と盤珪の不生禅の違い、ならびに仏教とキリスト教徒の非合理の処理法の違いが明確に示されている。一見平明な盤珪の不生禅の思想的な重要性について語る大拙に導かれながら、盤珪の言葉に普段の読書よりはよりじっくりゆっくりと付き合うようになっていた。言葉にならない禅の悟りの経験的直観智をそれでも言語化していくところに禅思想の困難があり難解さも出てくるのだが、盤珪はそれを「不生」の一語で語り整える。般若系の用語で「不生不滅」は珍しいものではないが、「不生」の一語「不生」の一状態に真如であり仏心のあり方を全注入して、人に言語で教えうるものとして盤珪は不生禅を提唱している。過酷な修行も、極限の思考も要らない。生まれたままの身一つに備わった「不生」の「仏心」に心を向けることだけを説いている。容易なことにも思われるこの教えは、しかしながら実践するのは難しい。身贔屓や分別智が覆いをかけてなかなか素のままの計らいのない状態を維持しつづけていることはできない。維持しつづけようとすることも一つの余計な計らいでもあるので、「不生」の純度を保つのはなかなか難しい。

生死と云うは、何年の何月何日に生まれて、何年の何月何日に死ぬることをのみ云うのではない。念念生死と言うように、生死は刻刻の出来事である。物の上、心の上だけの出来事でなく、人間思想の動きそのものがこれで規定されて行くのである。生死とは、分別の理に外ならぬからである。それで不生の場と云うことは分別を可能ならしめる無分別智の意味である。無分別の分別、分別の無分別――生死そのままの不生と云う義が成立するのである。
鈴木大拙「不生禅の特徴につきて」p27-28 )

合理の不合理、不合理の合理。合理を可能にしている不合理。カオスと言ってしまうと否定的意味合いが強くなるが、仏教の信者である盤珪は不生と言い、否定的表現ながらも生死の境を超える肯定性をもった思想を展開する。そこが盤珪の不生禅を読んで感じる爽やかさであると思う。別面、「仏心」と「個人」の垂直的な関係においての「仏心」の優位、「不生」と「生死」の垂直的な関係においての「不生」の優位は、仏教信者以外でも知的に理解は可能であると思う。ただ、多数の「個人」の水平的で政治的な関係、多数の「生死」の水平的で政治的な関係については、「不生」でどう整えられるのかは、法話には出てきていなかったこともあってよく分からないままであった。本来的「仏心」に皆が帰ればいいという話だけでは実効性がなさ過ぎると思ってしまうのは仏教信者でない者の単なる難癖なのかもしれない。
※以上書いて少し思い出したのは、実際の鈴木大拙の生き方や家族のあり方は旧慣習にとらわれない自由かつ大胆なものであったという安藤礼二大拙』での指摘。世俗的な領野でも参考になるものの多くが、過去から現在まで仏教界から多く出ていることを、今の時代においても軽く見てはいけないと少し反省した。

目次:
不生禅の特徴につきて(鈴木大拙
大法正眼国師法語
仏智弘済禅師法語
盤珪国師説法
特賜仏智弘済禅師盤珪和尚行業記
盤珪大和尚紀年略録
新版に寄せて(古田紹欽)

盤珪永琢
1622 - 1693
鈴木大拙
1870 - 1966
古田紹欽
1911 - 2001
    

参考:

uho360.hatenablog.com