読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

鈴木大拙『禅八講 鈴木大拙最終講義』(編:常盤義伸、訳:酒井懋 角川選書 2013 )

遺構の中から鈴木大拙晩年の講演用英文タイプ原稿を翻訳編集した一冊。文化の異なるアメリカ聴衆向けに書かれた論考は、仏教文化や仏教的教養から離れたところにいる現代日本人にとっても分かりやすく刺激的な内容にあふれている。そこに的確な訳注と編者によるさらに踏み込んだ解説が付いていて、現代において禅を知ることの意味合いを正しく伝えてくれている。サンスクリット語、漢訳仏典の中国語、日本語、英語という少なくとも四種類の言語を見渡しながら編集された本作は、思考が発動する根源的な場面を実践とともに再現もしているところに妙味がある。

ニルヴァーナ(涅槃、ねはん。苦の滅)の特徴は、常住、歓喜、自由と清浄である(ニティヤ、アーナンダ、アートマン、シュツデイ)。
「自由」という語に対するサンスクリット言語は、一般に「自己」と訳されているアートマンである。ニルヴァーナは「自己」であり、この「自己」こそが究極の実在をなすものと仏陀は宣言している。
(第二部 鈴木大拙、禅の世界を語る 序章「仏教とはなにか?」 p81 )

「自己」である「自由」と「自由」である「自己」の享受、自受用三昧こそが悟りという経験的直覚智であるということが、言語の語源からも述べられているところは、ふっと腑に落ちる。分別と無分別の分断を括弧入れした先に見えてくる思考の根源的事態を、言語に関わる知的考察から必然的に導いているところは流石だ。
この「自己」を西洋哲学の言葉で言い換えるとするなら、カントの「純粋統覚」だろう(第二部第一章「禅と心理学」p94)としていることを受けて、例えば第一部「禅は人々を不可得という仕方で自証する自己に目ざめさせる」に付け加えられた禅の始祖達摩大師の壁観に関しての編者解説を読むと、達摩禅に対するイメージや「自己」を維持生成するところの「純粋統覚」との関連性についての認識を刷新されもする。

壁観とは、空間を「外」と「内」とに分けている壁を、「自己」と看破する観察のこと。仕切りが自己であれば内と外とは平等であり、自己は内と外とを離れている、という深い認識である
大乗経典『[入]楞伽経』(四四三年に漢訳)もまた、外にあると見られているものは自心の現われにほかならず、その自心も、それ自体何かであることを離れており、不可得だと覚ることが正智だと説いている。
(第一部「編者解説」p73 )

カントの「純粋統覚」にも比せられる仏教的「自己」は、不可得かつ動的なもので、その動きを固定化して実体化させてしまうさまざまな偏向束縛が迷いを生んでいる様子が描き出されてもいる。そして、そのなかから鈴木大拙渾身の禅が主張するところの三つの戒が示される。曰く「一、肯定しない。ニ、否定しない。三、ものそのものになる。」という、大拙独自の三戒である。ものそのものが在ることの驚きとともにその存在を示すことで「ものそのものになる」という芸術の営為と禅の思考との類縁性が語られるのも、「自由」と同じ語であるところの「自己」の表現の機縁としての他なる「自由」他なる「自己」との出会いのよろこばしい衝撃が発生する場を共有しているからなのだと思う。
※宗教と芸術とで差が出てくるのは、宗教が時代と地域に拘束されない超越的な価値を仏や神と位置付けるものであるのに対し、芸術は感性を規定する文化の枠組みの中で枠組み自体を組み替えながら新たな何かを成就していくものであるところにあると、個人的には考えている。

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【付箋箇所】
26, 29,35, 36, 44, 50, 52, 73, 79, 81, 85, 89, 90, 92, 94, 96, 104, 106, 110, 114, 119, 128, 

 

目次:

第一部 最終講義
 禅は人々を不可得という仕方で自証する自己に目ざめさせる
【第一部 編者解説】

第二部 鈴木大拙、禅の世界を語る
 序章 仏教とはなにか?
 第一章 禅と心理学
 第二章 禅仏教と芸術
 第三章 禅仏教の戒に生きる
 第四章 仏教と倫理
 第五章 仏教の神秘主義
 第六章 禅仏教の哲学
 【第二部 編者解説】

編者あとがき
解説 『禅八講──鈴木大拙 最終講義』をどう読むか 末木文美士


鈴木大拙
1870 - 1966
常盤義伸
1925 - 
酒井懋
1928 -