読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』(初出「新フランス評論」1938.07, 景文館書店 酒井健訳 2015)とキリンジ「スイートソウル」のPV(2003)の市川実和子

装丁は大事。

バタイユの論文の新訳の装丁に、キリンジの「スイートソウル」のプロモーションビデオの五つのシーンが使われていたので、どんな関連性があるのか気になって、はじめてキリンジのCDを聞き、ネット上でPVの動画を探して視聴してもみた。

はっきり言って、私には装丁者の意図がさっぱり分からずじまいだったのだが、キリンジの音楽はよかったし、バタイユの論文についても、普通では考えないような批判的な視点が浮き上がったりして、人文書という商品としての異化効果が増していることは実感した。

20世紀前半のフランスで絶大な影響力を持ったヘーゲル学派の哲学者アレクサンドル・コジェーヴの圏域から突き抜けようとして書かれたところもあるバタイユの「魔法使いの弟子」は、至高な聖なるものに到達するための回路としての恋愛と供犠を論じている、一つ間違えば狂気の側に落ち込む可能性をもった危うい思考で、到底スイートソウルとは呼べない、スイートソウルではなくビターソウル、より近いところでは、錯乱ソウル、狂瀾ソウルという表現がありそうだ。本論考の恋愛論の部分と訳者による解説は、傑作『青空』の夜空の顚倒シーンのもとになる現実の恋愛と喪失の体験をもとにしている。資本主義社会下における労働と生活の分離や分業による分断によって損なわれた実存を回復するものとして恋愛と供犠がバタイユによって神聖視され、バタイユの実際の活動としても互いに溺れるような危うい恋愛への耽溺と、秘教的秘密結社での聖なるものをめぐる没入に落ち込み、人に危うさを感じさせ、離反と崩壊を導きながら、あり得ない輝きを瞬間的に放つ言説が光を強調する暗闇とともに生成される。とても不思議な作家であることを、本書はよく捉えている。

題にある「魔法使いの弟子」はゲーテの詩によるもので、20世紀前半のフランスでは作曲家ポール・デュカスの管弦楽作品(1897年作)として有名であったらしい。現代日本においては1940年作のディズニーのアニメ映画『ファンタジア』に収められた魔法使いの弟子ミッキーのしくじりが真っ先に思い浮かぶに違いない。

魔法使いの弟子を自認するバタイユに対して、魔法使いはコジェーヴでありヘーゲルであるのだが、魔法による治安と統制のとれた世界を疑う不生の弟子バタイユは、魔法の効用よりも、その荒々しい作用自体を限界まで見つめ続けることに価値を見出しているようである。訳者酒井健の言葉が危うい思想家としてのバタイユの像を増幅させてもいる。

「精神の<生>は、死を前にして怖気づき、死の破壊から身を守る生ではなく、死に耐え、死の中に自らを維持する生なのである。精神は絶対的な引き裂きの中に自分自身を見出してはじめて自分の真実を手に入れる」というヘーゲルの言葉をバタイユヘーゲル以上に生きたと言える。
(訳註[19]p46 )

概念としては「絶対値」ではなく「非―知」、「絶対値」を到達し終息し得ぬ痙攣的なものとしてとらえ返した「非―知」という視点。終わりから見る思想家ヘーゲルコジェーヴと、終わりにはどうにも到達できない非業の思想家バタイユ。どちらかといえばバタイユに魅かれてしまう自分の傾向はどうにもなりそうもない。

装丁にキリンジ「スイートソウル」のPVの市川実和子の写真がなければ、おそらく以上で読解はおしまい。

ただ、本書には論文との関係性の読解を誘う装丁がある。

装丁のもとになる「スイートソウル」のPVにあるのは、高度資本主義体制下の消費社会の安楽がベースの、生活と価値観と恋愛模様と人の交流のイメージで、身を引き裂く聖なるものではなく、聖なるものの廉価普及版としての綺麗なライフスタイル(生活様式)である。廉価普及版ではあっても、一般的には容易に手が届かないようなステージを描いていて、ほぼ確実に「いいなあ」という嘆息と欲望を喚起するところに抗いがたい魅力がある。実存の毀損分断に対する根源的抵抗よりも、現下の情動のケアのほうに目が向くのは当たり前だよね、というところをぐっと押してくる浸透の圧力が、恋人を思うPVのモデル市川実和子の映像の奥から攻めたててくる。映像は、社会インフラが維持できなければ生じ得ない、ごく平凡なやりきれなさやそこはかとない抒情も確かにあると感じさせる。
PVに出てくる社会を構成しているもの、例えば、首都高、ボルボ(自動車)、エレキギター、ガソリンスタンド、コンビニ、現金(日本銀行)、高級マンション、都市ガス、コーヒー、家具調度、家電、洋服、などなど。実存が損なわれる分業と賃金労働によってできているものばかり。至高なるものではない道具的なものの集積としての社会。

バタイユが仲間からも距離をとられるようになった至高なるものへの極端な傾倒は、日常的で道具的なものたちの世界を瓦解させてしまう危うさがある。本書の装丁は、凡庸さのなかの美しさをバタイユの過激さに添えて、バタイユの思想を尊重しながらも社会と喧嘩して引き裂かれない中性のポエジーの創出へと読者を導いているようにも思えた。

 

keibunkan.jimdofree.com

repre.org

参考:

福島勲 「神話の可能性、供犠の必然性──バタイユ魔法使いの弟子」における共同体の設計図」

cir.nii.ac.jp


目次:
欲求がないことは満足がないことよりも不幸だ
人間でありたいという欲求を失った人間
学問の人間
フィクションの人間
行動に奉仕するフィクション
行動の人間
行動は、人間の世界によって変えられ、この世界を変えることができずにいる
分裂する実存
完全な実存と、愛する存在のイメージ
愛する存在の幻影的な特徴
恋人たちの真の世界
ひとまとまりの偶然
運命と神話
魔法使いの弟子

ジョルジュ・バタイユ
1897 - 1962
酒井健
1954 -