読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョルジュ・バタイユ『マネ』(原著 1955, 月曜社 芸術論叢書 江澤健一郎訳 2016)

バタイユ晩年(といっても58歳の時)のエドゥアール・マネ論。西洋絵画の世界にブルジョワ的日常空間と色彩の平面性を導入することで、本人の意図しない数々のスキャンダルをひきおこし、印象派をじはじめとした近代絵画の道を切り拓くことになったエドゥアール・マネ
オランピア』の参照源となったティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』とマネの『オランピア』。女神と娼婦。永遠なるものと老いて死すべき儚い人間の一瞬。近現代絵画に馴染んだ眼でいま『オランピア』を見てみると、どこがスキャンダラスなのか、どこに嘲笑すべきものが描き込まれているのか、容易には感じ取ることができない。地上における何の保証もない寄る辺ない人生の一コマの、鑑賞者と地続きのどうにもならない卑小さが反発を生んだのであろうということは、かつてスキャンダルになった絵だという情報がなければ、改めて思いつくようなことではない。
ところで、有用性の価値を唾棄し、価値体系を転覆するような至高のものとの出会いを希求する思想家バタイユが、マネの絵画を取り上げ、どこに「至高性」を見出しているのかということは、本書を読む前にはなかなか予想できないことであった。マネの絵画の中で最も激しい画題として挙げられるのは、おそらく『皇帝マクシミリアンの処刑』であろうが、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日』を参照し引用したこの絵画には、ゴヤの描く情念的な人物たちの代わりに、魂の抜けたような心ここにあらずの人びとが単に存在しているだけなのである。おおよそ至高のポエジー、恍惚や法悦にはほど遠い、脱力した人ばかり描かれるのがマネの絵画の常である。分かりやすい甘美さや感動や満足を与えるような絵ではない。鑑賞者とは無関係に近いすれ違いの一瞬を演出しているような、どちらかというと見過ごしてしまう、意味や重要性を剥奪された素っ気ない画題が多い。バタイユはマネの絵画を「絵画の沈黙」「感情を表現する絵画の否定」「主題の意味作用に対する無関心」と表現している。そしてマネの絵画がもたらす「月並みな感情の廃絶、沈黙」、空虚感を呼び起こす既存価値体系の否定こそが、バタイユによってマネの絵画の至高性として措定される。絵画の技巧以外は真空が占める画面がバタイユを引き寄せているようなのであった。
バタイユがのめり込んでいたエロティシズムや秘密結社を母体に行われる供犠などの実践には一般的に近寄りがたいものがあり、その散文作品や思想書に興味を持ちながらも、どうしようもない距離を感じることもしばしばなのであるが、マネの絵画を鑑賞し、マネの絵画について論じられた文章を合わせて読むというレベルであれば、バタイユ思想に参入するハードルは低く、より親近感をもって接することが可能になる。バタイユの本文のほかに、かなり長めの訳者解説も付いていて、「無神学大全」を中心にバタイユの思想とこのマネ論の関連も紹介してくれている。巻末には本文で取りあげられているマネの作品が、カラー図版で50点付いていて、原著刊行時と同様にコンパクトな画集としても楽しめる。バタイユ思想入門としても、近代絵画論の入り口としても、マネの日本版最新画集としても、味わい深い一冊となっていると思う。

 

getsuyosha.jp

【付箋箇所】
12, 28, 29, 33, 39, 45, 48, 52, 55, 56, 62, 69, 73, 75, 80, 103, 127, 130, 133, 137, 142, 155, 60, 166, 

目次:
マネの優雅さ
非人称的な転覆
主題の破壊
オランピア”のスキャンダル
秘密
疑念から至上の価値へ
年譜
簡略書誌
訳者解説 もうひとつの近代絵画論『マネ』

ジョルジュ・バタイユ
1897 - 1962
エドゥアール・マネ
1832 - 1883
江澤健一郎
1967 -

参考:

ja.wikipedia.org

uho360.hatenablog.com