読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ひろさちや『法然を生きる』(佼成出版社 2022)

南無阿弥陀仏

称名念仏、口称念仏、専修念仏の教えを拓いた法然の存在意義を単刀直入に語った著作。

既存宗派から激しい非難を浴びることになる念仏他力の思想は、国家体制を司る貴族や高級武士達のものではなく、一般庶民層の救済を念頭に置いた革命的な世界観をもたらすものであった。統治者側から見ればひろく反乱の温床ともなる絶対的な安逸の世界を背景にした易行の世界観は受け入れがたいものであり、法然を筆頭にした他力念仏浄土門の僧たちは国家によって排斥された。仏教の教えとしての戒をとことん突き詰めていけば、戒を破らないような人間は存在することはなく、基本的にはすべての人間が破戒に陥る哀れな存在であり、それを無限の慈悲心によって支え救済するのが阿弥陀仏であるというのが、法然によってはじめて唱えられた全救済の世界観であった。本書の著者ひろさちやは、旧来仏教の戒律ありきの聖道門の世界観にくらべて、万人救済を本願とする浄土門の世界観を圧倒的に評価する。それがために鎌倉期の名僧明恵法然批判の書『摧邪輪』には冷淡である。体制的側面に親和性のあった自力思想と、反体制的な動向に親和性のあった他力思想。思想的な相剋よりも、政治的な相剋において、他力のリベラルな先進性を見るのは正しいようでいて、すこし行きすぎな面も感じる。

法然と比べて明恵が圧倒的に権力志向的だという見方はちょっと受け入れがたいものがある。しかしながら、過去のある時代の僧侶の好き嫌いをこれほどあからさまに表明する人物も少ないので、ひろおちやの個人的な見方というものには、参照項としての確かさもしくは頑固さをしっかりと感じ取れる。法然明恵の位置づけに対しては、本書を読んでしまえば、ひろさちやの意見が色濃く顔を出してくるようになる。かなり影響力の強い主張の書物なのである。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏にすべてお任せいたしますという信仰表明のことば。

信仰対象が阿弥陀仏と確定していない人に向けて、ひろさちやは「南無阿弥陀仏」を「南無そのまんま・そのまんま」と言い換えて検討するよう勧めている。極楽浄土の主宰者阿弥陀如来に全的に依存するのではなく、現状の娑婆世界の今ある自分自身のありようをまずは受容肯定し、そこからの生の展開を、役者のごとく運命的に演じ上げていく。影の演出家の阿弥陀仏との共同作業としての現世娑婆世界の一人物像を、運命的に受容し、望んだ如くに躍動させる。

現状肯定ばかりで新たな展開が生み出される余地がないようにも思えるのだが、人界を超えた縁起の世界では、通常の摩擦ある世界から離れた本来的な結びつきがより多く生み出され、より複雑多相な浄土世界が現れ続けるのかもしれない。

 

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【付箋箇所】
5, 22, 27, 39, 41, 72, 76, 88, 97, 98, 112, 132, 147, 149, 169, 189, 14

目次:
第1章 法然の魅力
第2章 比叡山における修学
第3章 法然の念仏理論
第4章 浄土門の教えを説く法然
第5章 法然教団への圧迫
第6章 流罪法然
第7章 法然の最期
第8章 現代と法然


法然
1133 - 1212
ひろさちや
1930 - 2022