読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

丸谷才一『新々百人一首』(新潮社 1999, 新潮文庫 2004)

藤原定家小倉百人一首、源義尚(室町幕府第9代将軍足利義尚)の新百人一首に次ぐ王朝和歌選集。25年の年月をかけて書き継がれて成った新しい百人一首。選歌に付けられた縦横無尽で出し惜しみのない解説文は王朝文芸に関するすぐれた評論にもなっていて、歌を読む楽しみと、歌が詠まれた文化的な背景を知る楽しみと驚きをもたらしてくれる。単行本は全669ページという大冊の一巻本。文庫本は上下二冊に分けられ、それぞれに著者と林望、著者と俵万智との対談が併録されている。
選歌100首を見ただけではどうしてこの歌が選ばれているのかすぐに想像することはおそらく難しいだろう選択となっているのだが、解説とともに読みすすめていくと、歌に使用されている言葉の重層的な意味や、本歌取りほか様々な参照や照合からなるインターテクスチュアリティの華々しさ、歌が詠われた当時の様相を色濃く打ち出している感受性や振舞いに、直に触れやすいような歌が選ばれていることが伝わってくる。丸谷才一の好みもあって硬軟両極で突き抜けてしまったような渋滞感のないエロティシズムや詠嘆や技巧の歌が選ばれていて、解説で引用される類似の歌、連想を誘う歌とともに味わうと、100首全体としてのまとまりにもさらなる満足感が付け加わる。このアンソロジーを起点として、万葉集と勅撰二十一代集や各歌人の私歌集、そして歌物語や日記文学軍紀物語にまであゆみを進めることも可能になるというオマケもついている。
たとえ初読であれ、どこからでも好きにつまんで読むことのできるアンソロジー。文庫本では自らの推奨する読み方を著者丸谷才一に加えて林望俵万智が案内してくれていて、対談相手に迎えられた二人はともに、どこから読みはじめても良いならぜひ和泉式部の黒髪の歌をと薦めている。

黒髪のみだれもしらず打ち伏せばまづかきやりし人ぞ恋しき

実事(性交渉)があったのちの何とも言えず愛しい二人の時間を思い出し恋焦がれる心身双方を貫くエロティシズムを見事に詠いあげた絶唱ということで、その筋に覚えのある人たちが心ふるえて真っ先に取り上げたいという気持ちはそこそこわかる。分かりはするがエロティシズムに興味はあってもあまり相性の良くない人間としては、ほかの入り方やつまみ食いの仕方も紹介しておきたい。実事には直接はむすびつかないが恋を色濃く感じさせるとともに31文字からなる歌の形式の極限を感じさせる歌。まずは俵万智との対談でも言及されていた二条后の一首。

雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ

鶯が涙を流し、その涙が凍りそして溶ける。現代的なリアリズムの感覚には響きにくい詩的表現を肯定するがために選ばれたような一首。解説文もほかの歌にくらべて相当長い30ページを費やしているので読み応えも抜群であるのだが、わざわざ読みの順番を指定しなくてもこの歌は100首のうちの三番目で、さらには先行する紀貫之平兼盛の歌も屏風歌という形式に沿って詠いあげられた人工的配慮の窮まった傑作和歌という解釈の流れに連なるもので、丸谷才一の反アララギ正岡子規的な王朝詩歌擁護の入り口になっている。この解説文のなかの鳥と泪の組み合わせに関する研究は、芭蕉の『奥の細道』の「矢立のはじめ」の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」にまでおよび、中世から近世にかけての日本文芸全体の流れに大きな示唆を与えてくれている。
もうひとつ、仮にはじめから読まずにここからということであれば、解説50ページを超える勅勘の人、15首目の平忠度の読人しらずとして残された「没個性的」な歴史の激動のなかでの歌ということも考えつつ、それを抑えて、はじめて禍々しい自閉的な自我の孤独の世界にとどまることで近代的自我の端緒に立っていたかもしれない歌人鎌倉第三代将軍源実朝の歌、王朝和歌の終焉を用意する危険性を持った歌から読みはじめてみることを薦めてみたい。

いつもかく寂しきものか葦の屋に焚きすさびたるあまのもしほ火

丸谷才一はこの歌を読んでただちに斎藤茂吉の『あらたま』所収の短歌を思い浮かべたという。

まかがよふ晝のなぎさに燃ゆる火の澄み透るまのいろの寂しさ

言語の多義性により外の世界に開かれていると見えながら、己が心に沈んで寂しさを優先し、外界とは没交渉のまま完結してもよしとするような「社交性の欠如」がほのかに感じられる詠いぶり。実朝のこの歌を「現代短歌はこの一首にはじまる」と言い放った丸谷才一の時代区画を頭に入れつつ、王朝和歌の世界の別世界の様相の探究をはじめることも本書を読むまたひとつの方法であると感じている。

 

【付箋箇所】
文庫上巻
13, 31, 43, 46, 55, 58, 65, 82, 86, 107, 122, 135, 163, 241, 250, 259, 260, 292, 408, 429, 441, 501, 504
文庫下巻
63, 78, 91, 108, 185, 195, 221, 372, 376, 385, 388, 390


丸谷才一
1925 - 2012

 

※残念ながら2022年現在単行本文庫本ともに品切れ中