八代集を読みすすめるにあたって、崇徳院が1144年下命し1151年に成立した第六勅撰和歌集『詞花和歌集』から、王朝文化終焉と武家文化への転換を意識するようになる。1141年の崇徳天皇退位で顕在化した、天皇家内での後継争いと摂関家内での勢力争いを境として、武家の力を借りる抗争のうちに武家勢力に実権を奪われ、朝廷の力が弱体化していく転換期に、狂い咲きともいえるような妖しい輝きを放つ華麗な詞華集三篇が連打された。『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』。時代的には、保元平治の乱になだれ込む天皇家と摂関藤原家双方の内乱と、旧来の律令制と台頭してきた武家独自の法慣習とのせめぎ合いが、特異な熱量を以て繰りひろげられていた時である。1180年~1185年の源平の合戦を挟んで、1221年の承久の乱での後鳥羽院の敗北で、王朝文化は完全に失速する。その転換の時代の端緒を担った人物として崇徳院の存在は重い。帝の位を継承するにふさわしい教育と生まれながらの文化的な資質が具わった人物であったことは、のちの世代への影響ということでは群を抜いた存在となっている。悲劇に見舞われた高貴な存在として忘れがたい存在であるだけに、その死ののち時を置かずして怨霊伝説まで出てくる人物なのであった。
崇徳院怨霊については、保元の乱敗北後の讃岐配流後の創作にもあらわれる崇徳院の実際の心のあり様とはかなりズレも生じていると言うべきであるのだが、敗者側にもないとはいえない正当性についての救済のひとつの現れとして、適切に受け止めるべきものであると考えられるし、逆にそこから、崇徳院の生前に確実にあった生の活動、身体とともにあった精神或いは霊の活動としての歌を受け止めるべきであると考える。
死を迎える前、怨霊化したとされるはるか前の『詞花和歌集』の自作歌は、以下七首
0008
子の日すと春の野ごとにたづぬれば松に引かるこゝちこそすれ
0050
をしむとてこよひかきおく言の葉やあやなく春のかたみるべき
0126
秋ふかみ花には菊の関なれば下葉に月ももりあかしけり
0229
瀬をはやみ岩にせかるゝ滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
0292
月清み田中にたてる仮庵のかげばかりこそくもりなりけれ
0379
ひさかたの天の香具山いづる日もわが方にこそひかりさすらめ
0403
いづる息のいるのを待つまもかたき世を思ひしるらん袖はいかにぞ
しかも、『詞花和歌集』の自身の歌に対して削除の指示をしたものがあったというのだから、その誠実さについては疑う余地はないといってよいだろう。その誠実さは、保元の乱の敗軍の将としての実際においても、基本的にゆるぎないものであったように思える。
崇徳院
1119 - 1164
参考: