読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

塚本邦雄『緑珠玲瓏館』(文藝春秋 1980)

藤原定家への挑戦の書『新撰小倉百人一首』と同じ年に刊行された著作。

西欧的高踏詩を短歌に移植することに成功し塚本美学のひとつの達成点とされる1965年刊行の第五歌集『緑色研究』から、自選の100首を掲げ、歌それぞれに新たな賛としての幻想増殖的散文を付与して、自身の世界を開陳した百首シリーズの特別編。

「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を視る以外何の使命があらう」という著者自明の宣言を、改めて喚起し、自身の実践を自らのフィクショナルな散文で額装しようとしたとも考えられる。

ただし、古典作品が自然風物や古代中世の狭い範囲での生活習慣をベースに制作されているがために、およそ1000年後の現在の日本においても、すこし努力すればかなりの程度味読可能なものであるのに対し、たかだか50年前後を遡る必要があるに過ぎない塚本邦雄の短歌も散文も、なかなか容易には読者を迎え入れてはくれない。

和歌や短歌自体が、そもそも人工的な決まりごとのなかで言語表現を競うゲームのようなものであるのだが、前衛短歌と呼ばれるジャンルの帝王塚本邦雄が先導するゲームは、旧来のゲームのルールやルールのグレーゾーンを極端に押し広げていこうとするもので、革新的なテクニックとそこから放たれる異次元の光景に、目と心がついていかないと呆気にとられたまま置いてけぼりにされる。

塚本の提示する短歌の新しいゲーム感が、すべて正しくすべてが受け入られるものではないことは、読者個々人が実際に塚本短歌を読めば自ずから判る。

革新の試みとして塚本短歌のすべてを肯える者がいるとしても、それが未来に向けて実り多いものであるかどうかを保証することは不可能であろう。

実際に短歌界で塚本邦雄を受け継ぎ尚且つ上回る革新を打って出た人を寡聞にして知らない。いるとするなら、塚本邦雄の正統な弟子筋の荻原裕幸ではなく、強烈な読者としての穂村弘であろうが、両者ともに近年の歌作数は極端に減っているし、あまり刺激的な批評作品が出ているとも聞かない、というか、耳や目には入ってこない。

ニューウェーブ短歌の世界が席巻した後の今現在の短歌界の状況は、おそらく凪ぎの状態なのだろう。

短歌の世界だけでなく、文芸全般の世界なのかもしれないが、話題になる作品はあっても、目を見張るような理論家や観賞家が存在しづらいし影響を与えづらい、グローバル村の勝手許容世界なのだろう。

そもそも、想定の敵を設定して撃破する容易な夢など見られなくなったことがあるのだろう。

敵が、権威でなく、消費動向になって、消費に勝ちつつ、消費構造に一石を投じ続けることが美的行為となったためであろう。

塚本邦雄には、少なくとも憎むべき何かがはっきりと存在していた。

それに対抗するための、創作と批評であった。

創作での対抗は、短歌形式が最も優れ、散文や自由詩などでは一段鋭さが落ちた。

本書でも、自作短歌の引用部分が最も熱量が高く、鋭さにおいても重厚さにおいても、ほかの言葉を寄せ付けない。

賛として追加された散文は、短歌の幻想世界の幻を、増殖させはするが、ふやけさせ陳腐化させもする。

複数の短歌にわたって、同一のイメージ増殖が行われると、食傷気味にもなる。

短歌作品は、さすがに個別の耀きを放ち続けてはいるのだが、そこに埋め込まれた固有名詞や普通名詞の豊富さが、逆に特殊時代的な相貌をもっていることで、気楽な鑑賞には向かないことになる。

すくなくとも使用されている固有名詞や普通名詞に感応する何かをもっていなければならない。

(以下、短歌本文は実際は正字正仮名)
海苔焦げて痙攣るみどり マヤコフスキーを死に遂ひつめたるものは?
※すくなくとも海苔をあぶる行為は知っていなければ分からないし、マヤコフスキーやロシア的な雰囲気に興味関心が働かなければ意味のない歌となる。

花伝書のをはりの花の褐色にひらき 脚もていだかるるチェロ
世阿弥花伝書に思いが行き、そこにチェロの演奏家の姿を重ねるような読み解きに誘われる素地がないと、歌の世界が広がっていかない。


さらに、いずれも5・7・5・7・7の和歌短歌のリズムに意図的に抵抗して効果を上げようとしている作品なので、短歌であり且つ非短歌的なリズムを許容しないと、歌の言葉がひとつの作品として味わいきれないものとなる。

基本的に言語の危うい性格を最大限に取り込もうとしている歌作の態度なので、読むほうにもそれ相応の曲芸が要求される。

尋常ならざる言葉の活動領域に、自分をスライドさせてみる非日常的な行為が、塚本邦雄の短歌を読むということで実現される。

「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を視る以外何の使命があらう」。

幻の世界を短い象徴的な言葉によって現出させる己の能力に読者が出会うこと、それが塚本邦雄の願いであり、塚本邦雄読者の歓びでもあろう。

散文は、幻を視るにはいささかくどくて生臭さが強すぎるようだが、短歌作品は波長が合うと、とてつもない世界に目覚めさせてくれる。

波長が合わないと、作り物めいて魅力が乏しくなるのも、また、塚本短歌の特徴のひとつであり、苦い味わいでもある。

※少しでも読みやすくなるかもしれないと思って、今回の投稿、一文ごとに改行してみた。


【付箋箇所】
16, 18, 27, 33, 35, 51, 65, 66, 69, 72, 81, 87, 89, 101, 111, 122, 133, 135, 157, 177, 186, 201, 222, 238, 248, 249, 266, 272, 281, 289, 291, 309, 318, 332

塚本邦雄
1920 - 2005