岩波文庫で西行といえば、しばらく前までは佐佐木信綱校訂の『山家集』(1928)だったが、近年は西行歌の全体像に触れられる『西行全歌集』約2300首が新たに出ている。人気があってずっと読まれている歌人というのは、やはり恵まれている。『西行全歌集』のなかにも登場し、西行とも関係の深い崇徳院の歌の扱いなどとは雲泥の差だ。政治的な敗者としての恨みを想像されて怨霊化させられてしまうばかりで、後の世の歌人としての不遇のために怨霊化したなどという話にはならないところが、文芸がはじめから持ち合わせている弱さなのだろう。歌のために怨霊化したら、怨霊化後の歌も出てこなければおかしいし、そのように仮託された歌を作り出すのも物語をつくるよりも難しいのであろうから致し方ない。西行はその点でも「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠い、自己演出の極致でそのとおりに死んだために伝説化もされて、ずいぶん得をしている。
本書『西行全歌集』では、『山家集』の外でなされた西行の二度の自歌歌合と判者俊成、定家の絡みあいが見られるところが画期的。西行嫌いを公言しながら『西行百首』を書いた塚本邦雄が、それでも瞠目した「御裳濯河歌合」(1187)から『新古今和歌集』(1205)に採られた秀歌を、元の姿のまま確認することができる。
彼の秀歌は、新古今集入撰の『御裳濯河歌合』作品に尽きる。
あるいは
私自身は西行嫌いで通っている。断っておくが私は、うるさいくらい繰り返したように、御裳濯河歌合の七十二首中から、新古今集に採られた作にほとんど渇仰に近い愛着を覚える。
以上引用が塚本の西行評の基本的姿勢であるが、実際に「御裳濯河歌合」の七十二首中から『新古今和歌集』に採られたのは、十九首とかなり多く、そのなかには西行の恋の歌には碌なものがないといわれている恋の歌も含まれているので、実際のところはもっと厳しい評価なのであろうと思わせもする。この場合、『新古今和歌集』の西行歌に関しては、入撰九十四首の中から十三首削除された、後鳥羽院切り継ぎ後の讃岐本を指している可能性もある。
西行の「御裳濯河歌合」から採られた『新古今和歌集』入撰策のなかでも、手放しで褒めているのは以下の歌。
心なき身にも哀は知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
(御裳濯河歌合36, 新古362)
ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる
(御裳濯河歌合31, 新古218)
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原
(御裳濯河歌合33, 新古300)
きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく
(御裳濯河歌合41, 新古472)
津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり
(御裳濯河歌合58, 新古625)
人は来で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く
(御裳濯河歌合53, 新古1200)
「彼の秀歌は、新古今集入撰の『御裳濯河歌合』作品に尽きる」と言ってはいても、ほかの作品をちゃんと褒めているところも塚本邦雄らしい。
「都にて月をあはれと思ひしは数にもあらぬすさびなりけり」は「深き山にすみける月」と、最も近似した一首であるが、「都にて」に単刀直入、ひたと迫って来る言葉の冴えが、理がましさを越えて絶品としたい。
また「月冴ゆる明石の瀬戸に風吹けば氷の上にたたむ白波」に対して、
「氷の上にたたむ白波」。善い哉。
と言っているところなど、ぐっと親近感がわく。
塚本邦雄にも導かれながら、西行73年の人生の多面性を味わうことのできた『西行全歌集』だった。
※今回付箋を付けた歌は、おそらく今の私を現わしているだけで、時がたてばまた別の鑑賞の仕方になるのだろうと思う。
【付箋歌】
[山家集]
23, 124, 168, 326, 401, 414, 425, 452, 457, 470, 495, 496, 574, 628, 646, 723, 739, 754, 800, 876, 1227, 1311, 1314, 1447
[聞書集]
9, 99, 110, 133, 184, 212, 220,
[残集]
29
[御裳濯河歌合]
12, 16, 22, 36, 39, 41, 55, 56, 59,
[宮河歌合]
29, 31
[松屋本山家集]
32, 58, 59
[西行法師家集]
1, 31, 38, 47, 57, 86, 113, 135
[撰集ほか]
9, 18, 49, 54,
目次:
山家集 上
春
夏
秋
冬
山家集 中
恋
雑
山家集 下
雑
百首
聞書集
残集
御裳濯河歌合
宮河歌合
拾遺
補注
校訂一覧
解説:久保田淳
初句索引
西行
1118 - 1190
崇徳院
1119 - 1164
久保田淳
1933 -
吉野朋美
1970 -
塚本邦雄
1920 - 2005