読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ルイス・ホワイト・ベック『6人の世俗哲学者たち ―スピノザ・ヒューム・カント・ニーチェ・ジェイズム・サンタヤナ―』(原書 1960, 藤田昇吾訳 晃洋書房 2017)

教会と対立していると考えられる世界を世俗と定義したうえで、世俗的関心から宗教的問題に深くアプローチした哲学者について考察したコンパクトな書物。取り上げられた哲学者のラインナップが魅力的で、特に日本ではほとんど触れられることもないサンタヤナについての論考が含まれいるのが貴重。内容的にもウィリアム・ジェイズムからジョージ・サンタヤナのアメリカ哲学の師弟コンビの二章が特徴があって新鮮に読めた。

著者ベックはカントの特に『実践理性批判』を専門としているアメリカの哲学者で、ジェイムズ、サンタナヤの章が精彩を放っているのも、どこかアメリカ的感覚でつながっていることに原因があるのかも知れない。ジェイムズ、サンタナヤが個別研究として市場であまり見かけないことも、新鮮味をもたらしている理由のひとつだろう。

プラグマティズムを代表する哲学者ウィリアム・ジェイズムの世界観として、神学の伝統的唯一絶対の真理に対して、実践的要求と経験に適合する多元論的真理を説き、人々の活動によって常に生成しつづける宇宙というものを提示する。

永遠に生じ来る宇宙の中では、多くの中心を通して常に活動的で、そして無用な副産物や幻想としてではなく核としての精神を有し、世界そのものが変化し、またその中での人類の活動によって再創造される。

ジョージ・サンタヤナはスペイン出身のアメリカの哲学者で詩人。1912年以降アメリカを離れて活動した人物で、ウィリアム・ジェイズムの弟の小説家ヘンリー・ジェイムズや詩人T・S・エリオットなどの心性にも近く、アメリカ社会における異邦人性も根幹にもっていたと考えられる。思想傾向としては「宗教的真理に対する懐疑主義乃至は消極主義と、宗教的な信仰と実践における本質的な価値の肯定という二極面」を併せ持っているとベックに評されている。宗教だけでなく、芸術や科学、国家や社会などは、人間の生活上の必要から創作されたものであるという認識がサンタヤナの思想と創作を貫いている。カソリック教徒でありながら一般的な分類でいえば唯物論的であり無神論者であることを自覚していた著述家である。

全ては、必要性によって造り出されたものであるが、しかしこれらは、想像力と理性の理性化を表現している映像乃至は神話なのである。完全に実現された理性の根源力においては、理性は単に映像であることをやめて、作用的になる。衝動は単に野獣的であることを止めて人間的になる。行動は発作的で虚飾的であることを止めて知性的で効果的になる。理性の根源力そのものが、人間のような意識的な存在者の具体的な理想である。

サンタヤナは日本での需要がそれほどなかったためか、ほかの5人と比較すると翻訳書が古い上に少ないのが残念な思想家だ。

最後に翻訳について。ベックの弟子筋の研究者である藤田昇吾は、大学の教授職も務めていたカントを専門とする人物。哲学の専門家で、哲学上の用語や固有名についての知識は当然のようにもっているはずであるのだが、本訳書では日本で通常使用されているものとは違う訳語がたびたび使われている。おそらく引用箇所についても原書の英語からの直訳で通しているためであるためだろうが、固有名詞にまでそのことが貫徹されると、少し違和感も持つ。Zarathustraはツァラトゥストラではなくザラツストラ、Omar Khayyámはウマル・ハイヤームでもオマル・カイヤームでもなくオウマ・カイヤーム。訳文も直訳で硬いなあという感じが時々湧いてくるのがすこし惜しい。

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【付箋箇所】
8, 33, 40, 52, 55, 57, 63, 64, 70, 73, 78, 80, 86, 91, 93, 95, 104, 105, 106, 110

目次:
第1章 世俗哲学とは何か?
第2章 世俗哲学者たちの一族
第3章 スピノザ
第4章 ヒューム
第5章 カント
第6章 ニーチェ
第7章 ジェイムズ
第8章 サンタヤナ

ルイス・ホワイト・ベック
1913 - 1997
藤田昇吾
1939 -