読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹村牧男『親鸞と一遍 日本浄土教とは何か』(講談社学術文庫 2017, 法蔵館 1999)

他力浄土門の対照的な祖師の二人である親鸞と一遍を主に教学的側面から対比しつつ、日本浄土教の救いの理路を描き出した一冊。「信心の親鸞」に対し「名号の一遍」と言われる二人の念仏の思想を、特に三信(さんじん)の問題と還相(げんそう)の問題に焦点を当てて、救われる根拠と救われたのちの他者救済の道ということを主要論点として、共通部分と相異を明らかにしている。そのなかで大乗仏教として救われた後の利他行の相を重く見て、著者が祖師二人の思想に迫っているところが本書のいちばんの読みどころとなっているという印象を持った。大乗仏教であれば、救われることばかりでなく救われた後のことを考えなければならないというのは、信ずる側あるいは学ぶ側の問題としては忘れがちになっているところであり、その傾向に関して著者竹村牧男は注意喚起をしている。大乗仏教を信じ歩むもののあり方としての菩薩道の歩みを親鸞と一遍に見るとともに、現代の一般読者層に向けて菩薩道のありうべき姿を説いているところに一種の鮮烈さがある。当然考えられてしかるべき物事を、しっかりととらえて論じているところに信頼が置ける。

我々は救われたあとどうなるのか。この問いにかかわる問題としては、往生の問題、成仏の問題などがある。しかしここでは、その問題を、「還相」ということに焦点をあてて考えてみたいと思う。還相というのは、周知のように、往相に対する言葉である。往相とは娑婆から浄土に往くことであり、還相とは往生した浄土から娑婆に還って、利他行に専心することである。このようなことは、大乗仏教の構図として、あまりにも当然な菩薩の道ゆきである。
(第四章「親鸞と還相」より)

「あまりにも当然」といわれて、ハッと気づくことが他にもかなり多く本文中で指摘されている。そして、浄土教の主要経典となっている『無量寿経』の描かれた世界について、歴史的事実ではなく「あえていえば、神話なのである」と言い切っているところなど、めざましい記述も多い。蒙が啓かれる一冊。

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【付箋箇所】
12, 19, 24, 34, 42, 52, 56, 57, 69, 83, 84, 89, 91, 100, 101, 103, 129, 131, 141, 150, 154, 165, 167, 170, 172, 176, 181, 188, 195, 215, 219, 226, 235, 272, 292, 294, 303, 314, 320, 322

目次:
序 章 親鸞と一遍の浄土教
第一章 浄土教とは何か
第二章 親鸞の救い
第三章 一遍の救い
第四章 親鸞と還相
第五章 一遍の還相
終 章 浄土教と現代
原本あとがき
文庫版あとがき

竹村牧男
1948 -
一遍智真
1239 - 1289
善信房親鸞
1173 - 1263

 

参考:

uho360.hatenablog.com

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