読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

上野修『スピノザの世界 神あるいは自然』(講談社現代新書 2005)

講談社現代新書にはスピノザを扱ったものが三作品あり、本書はその中でいちばん最初に刊行されたもの。

スピノザの初期の作品『知性改造論』と死後刊行の主著『エチカ』(正確には『幾何学的秩序で証明されたエチカ』)とを扱った解説書で、真理と倫理の次元にターゲットを絞った論考となっている。もう一方の『神学・政治論』から『国家論』に伸びる神学・政治論的な敬虔の次元は扱われていないが、『エチカ』に込められたスピノザの核心的な世界観もしくは自然観を読み解くには適した選択であったと思う。

入門書とうたわれているが、内容的には『エチカ』を二度目以降に整理しつつ読みたいという人に適したかっちりしたつくりとなっている。『エチカ』自体が幾何学的秩序で厳密に構成されたものであるため、整理しつつ読むという言い方はある意味おかしいものではあるのだが、無限で唯一の実体である神あるいは自然から、局所的に実体の様態としてあらわれる個物と、その個物のうちのひとつである人間というものの在り方を通して観るには、かなり知的体力が問われる。『エチカ』の論理の厳密さを崩すことなく、その芯の部分を咀嚼しやすく調理したうえで、全体像を想像できるようなかたちにして、手ごろなセットで提供するための下ごしらえと整理がなされているという印象は受ける。

『エチカ』解説の助走の段階には次のようにある。

スピノザが『エチカ』を執筆していた)当時のふつうの考えでは、世界は神がつくったということになっていた。ところがスピノザでは、「つくる」という言葉が完全に消えている。神はつくらない。事物に様態化し、変状するのだ。
(3「神あるいは自然」より)

いまここという局所で、設計なしに必然的に個物として「事物に様態化し、変状する」のが神即自然の在り方であるのだという。スピノザの用語では第三種認識といわれる直観知、永遠の相のもとに事物を認識する至福は、本書の上野修によれば「個物の認識」ということに至りつく。今回、おそらく3度目になる本書再読で、上野のこの読解部分を読んだ時に、スピノザの『エチカ』の読解だけでなく、本書に先行すること15年にもなろうとする柄谷行人『探究Ⅱ』へのオマージュでもあったのではないかと想像しつつ、以下引用箇所はなんだか勝手に感動しながら読んだ。

そういえば、個物の「個」に当たるラテン語には「パルティクラーリス」(particularis)と「シングラーリス」(singularis)があるが『エチカ』は「シングラーリス」の方を好んで用いる。それには理由がある。「パルティクラーリス」だとパート、つまり同類全体の中の個別事例という意味になってしまうが、「シングラーリス」ならシングル、すなわち他のどれとも似ていない特異な、単独の、一つっきりの、という意味になる。第三種認識はこの世に一つっきりの事物の、リアル・タイムの認識のことだ。
(6「永遠」より)

いろいろな事情があって柄谷行人『探究Ⅱ』はいま手元になく未確認ではあるのだが、柄谷のいう単独性が代替不可能な存在を意味するのに対して特殊性が代替可能な存在を意味しているという、単独=普遍と特殊=一般の次元の違いを、スピノザを論じながら上野が言い換えているような感覚を抱く。第三種認識の直観知が単独=普遍の次元の至福=愛であり再現不能なのもであるのに対し、第二種認識の理性的認識あるいは共通概念はいまだ特殊=一般の次元に属する無時間無空間(あるいは特定時空間)のいわゆる観念的次元の再現可能かつ計算可能なものなのであろうと、現時点では想像する。

15年くらい遅い感受だが、それが私という個物であるのだなと思って、次の必然が期待できるものであるようにしながら、いまここという局所を過ごしている。

柄谷行人の新著『力と交換様式』が出版されたことの記念もかねての投稿(現時点、未購入:近場の書店では扱っていなかった。残念)

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目次:
1 企て
2 真理
3 神あるいは自然
4 人間
5 倫理
6 永遠

上野修
1951 - 
バールーフ・デ・スピノザ
1632 - 1677

 

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