講談社現代新書の『スピノザの世界 神あるいは自然』(2005)に先行する上野修のはじめての単著。80年代から90年代にかけて学術誌に発表された論文を集めたもので、内容的には学問的。参考になる注も付いている。論述対象の配分はスピノザが70%程度で圧倒的に多く、デカルトとホッブズはそれぞれ15%くらい。ただしスピノザとの差異を取り上げつつ分析されていることもあって、デカルトもホッブズもその特徴がかなり鮮明に描き出されている。また、共通点としては「機械論」「機械モデル」で存在の暗部にいたるまで思考を推し進めたところが挙げられている。
一七世紀は「機械論」の世紀であった。が、ただの機械ではない。機械的な存在が自生し、産出し、ものを言うのである。それは「合理主義」という名から想像される以上に不気味な、「存在論的機械論」とでもいうべきものの出現であったと私は思う。機械的な存在が主観の対象の側に客体として仮構されてある、というのではない。むしろ、自分は別なふうに存在しているのかもしれぬという隔たりをわれわれ自身のただなかに開く、そういうものとして機械的なものはある。
(「ものを言う首」より)
上記は出版社の書籍紹介サイトにも引用されている部分で、三人の哲学者がそれ以前の時代の哲学者あるいは神学者などの思想家たちといかに異なっているかを示すものでもある。
身体と精神の自動機械的構成と産出を見るとともに、複数の人間のあいだに生まれる力学や法にまで思考が及んでいることを、三者三様に描き出しているところが、本書の読みどころであると感じた。
【付箋箇所】
13, 15, 18, 25, 44, 51, 56, 57, 58, 61, 82, 85, 91, 94, 97, 101, 104, 110, 111, 112, 119, 126, 128, 132, 133, 136, 137, 138, 144, 146, 152, 154, 162, 168, 179, 181, 184, 186, 201, 206, 208, 217, 223, 224, 232, 237, 240, 245
目次:
ものを言う首――序にかえて
残りの者――あるいはホッブズ契約説のパラドックスとスピノザ
意志・徴そして事後――ホッブズの意志論
スピノザと敬虔の文法――『神学政治論』の「普遍的信仰の教義」をめぐって
スピノザの聖書解釈――神学と哲学の分離と一致
われらに似たるもの――スピノザによる想像的自我およびその分身と欲望
精神の眼は論証そのもの――スピノザ『エチカ』における享楽と論証
デカルトにおける物体の概念
無数に異なる同じもの――スピノザの実体論
スピノザの今日、声の彼方へ
上野修
1951 -
ルネ・デカルト
1596 - 1650
トマス・ホッブズ
1588 - 1679
バールーフ・デ・スピノザ
1632 - 1677