読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

シオランをまとめて読んでみた

無感動状態であるというわけではないと思っているのだが、シオランアフォリズムには、本当のところ心が動かない、現時点での私には響いてこない。断章形式ということもあって、それほどストレスなく、いくらでも読もうと思えば読めてしまうのだが、不思議なほど心に響いてこないし、怒りも感動も湧いてこない。逆に、シオランが発する言葉は(私にとって)いったいどういったものなのだろうという観察の興味が湧いてくるくらいの距離感があって、よそよそしさや他人事めいた感じがある。それでいて全く関心をひかないというわけでもない。不思議な作家なのである。

まずは、この人は何を職業にして暮らしているのかというところが著作から読み取れない。大学講師なのか純粋な著述家なのか、生活に関するところがまったくといっていいほど見えてこない。分かるのは不眠症であるということくらい。

ペシミスト、生への呪詛を訴える人ではあるのだが、シオランの生を呪いつつ生きる言葉が親和して落ち着くところが私にはないのだろう。不眠症を共有しているわけではないし、シオランの孤独の様相が私自身とはどこかちがっているということだけは肌感覚でわかる。また不眠症の果てに体験したエクスタシーの体験も共有できていないことがおいてけぼり感を強くしている。近場にいるけど交流できない人という印象。年齢的なこともあってか、特にシオラン20代の著作には、若さの圧に跳ね返されているような無言の拒絶感も若干感じた。晩年の作品には棘のとれた諦念がまじっていて若干ユーモラスな印象にもなっているので、『告白と呪詛』にある言葉のほうが親しみやすい。ほかに気にかかる主張としては、水平の姿勢を好む東洋人に対してたったまま考える西洋人という見立てがある。

空(くう)について、非永続性について、ニルヴァーナについて思いめぐらさなければならぬとき、横になるか、踞るかが姿勢としては最上のものだ。こういう姿勢でこそ、これらのテーマは抱懐されたのだ。
立ったまま考えるのはほとんど西洋だけだ。おそらくここに、西洋の哲学のもつ不愉快なまでの実証的な性質が起因している。
(『悪しき造物主』「扼殺された思念」より 太字は実際は傍点)

これでひとつのアフォリズムとなっている。ほかにも似たようなアフォリズムはあるが、いずれも説明や具体例など抜きの直観的な思考のちいさな塊で、読み手の感覚に引っ掛かるかどうかだけで勝負しているようなところがある。感覚的に賛同できるものであってもここから思考を拡げたり深めたりしていくのはなかなか難しい。そのぶっきらぼうさがシオランの魅力でありまた物足りないところでもあるのだろう。


『絶望のきわみで』(ルーマニア語原著 1934, フランス語版 1990, 紀伊國屋書店 金井裕訳 1991, 2020)
 70, 72, 733, 79, 83, 90, 105, 108, 110, 118, 134, 135, 141, 154, 162, 167, 172, 175, 181, 

『欺瞞の書』(ルーマニア語原著 1936, フランス語版 1992, 法政大学出版局 叢書ウニベルシタス 金井裕訳 1995)
 10, 16, 21, 25, 27, 47, 54, 61, 67, 74, 128, 153, 154, 164, 169, 170, 196, 207, 228, 231, 232, 235, 242, 245, 246, 249

『悪しき造物主』(フランス語原著 1969, 法政大学出版局 叢書ウニベルシタス 金井裕訳 1984
62, 78, 87, 93, 97, 102, 128, 135, 139, 148, 149, 151, 155, 158, 161, 169, 176, 178, 181, 196, 202, 206, 210, 213

『生誕の災厄』(フランス語原著 1973, 紀伊國屋書店 出口裕弘訳 1976, 2021)
14, 23, 32, 35, 80, 81, 117,  143, 163, 182, 186, 253, 257, 280, 290, 326

『告白と呪詛』(フランス語原著 1987, 紀伊國屋書店 出口裕弘訳 1994)
4, 17, 34, 50, 103, 104, 141, 160, 185, 212, 230


エミール・ミハイ・シオラン
1911 - 1995