読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャン・フランソワ・ビルテール『荘子に学ぶ コレージュ・ド・フランス講義』(講義 2000, 出版 2002, みすず書房 亀節子訳 2011)

スイス生まれの中国学者がパリの地の聴衆に向けて講義した荘子の記録。日本人が日本人に向けて語る荘子とはだいぶ違った印象の深読みが実践されていて面白い。
荘子を語るにあたって引き合い参照される人物たちがまず独特で、荘子像を新たなかたちで印象づけるとともに、荘子と対比されるそれぞれの人物たちも荘子側から解釈され直すようなところがあって、新鮮。まずは、記述と説明との差異についてヴィトゲンシュタインへの類想からはじまり、そのあと、言語と幻想の関係性についてヴァレリーへ、さらにジュリアン・グラックスピノザモンテーニュ、クライスト、アンリ・ミショー、バッハ、ブルトンマックス・エルンストなどが召喚され、荘子西欧文化圏のなかに導入させていく。固着したイメージから自由になったところに出来するヴィジョンとレジーム(状態)の移行。フランス文化圏ではシュル・レアリスムに結び付けられるのは、荘子随一のエピソード「胡蝶の夢」からも想像つきやすいといえばまったくそうなのだが、アンリ・ミショーを荘子から逆照射しているところは、組み合わせ的にはびっくりするものがあった。幻視者アンリ・ミショーの表現における忘我の経験の記述の繊細さと、「忘坐」という状態についての荘子の表現の鮮やかさには通底するものがあるとする、第三講義「混沌の弁明」はビルテールならではの大胆な講義内容になっていると思う。訳書にして6ページ分のスペースがアンリ・ミショーのテキストの引用からなっているのだから驚きで、ミショーのほかの作品へもこの講義で指摘された視点から読み直してみるよう誘荒れているような気にもなる。ミショーばかりでなく、ほかの人物たちへの導線も魅力的で、こうした講義であればぜひ生で聞いてみたいものだと思わせてくれる。
ほかには、当たり前のことではあるが、本書に引用される荘子のテキストはビルテールによるもので、このフランス語訳された荘子は日本で引用されるときの読み下し文とはかなり印象が違い、翻訳自体が最も根本的な解釈の場であることも教えてくれていて、興味深く読める(読み下し文は注として岩波文庫金谷治氏のものが併載されているのでビルテールフランス語訳から重訳との比較は容易に行える)。

秋水篇第十七

ビルテール訳からの重訳:

馬にしても、水牛にしても、四本の足を持っている。これが私の、天と呼ぶものだ。馬に端綱をつけ、牛の鼻面に穴をあける、これが私の、人と呼ぶものだ。それゆえに私は言うのだが、と北海王は続けた。あなたの内なる天性をこわさないように気をつけなさい。故意(はからい 故)が必然(命)をこわさないように気をつけなさい。

読み下し文(故に曰わく以下)

故に曰わく、人を以て天を滅ぼすことなかれ、故をもって命を滅ぼすことなかれ

第一講義の題でもある「物のはたらき」は、老荘のテキスト内では重要な概念である「道」の訳語としてビルテールが選択した語でもある。

 

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【付箋箇所】
14, 24, 39, 46, 49, 51, 60, 64, 66, 70, 73, 89, 92, 101, 107, 114, 118, 120, 129, 166, 172, 174


ジャン・フランソワ・ビルテール
1939 -
亀節子
1954 -