読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹村牧男「『大乗起信論』を読む」(春秋社 2017)

大乗起信論』は大乗仏教の数少ない綱要書のひとつで、一心二門三大四信五行の体系的な構成により、唯識如来蔵・中観思想を統合的に示している。
一心二門三大四信五行は、一心=衆生心、二門=真如門と生滅門、三大=体大と相大と用大、四信=真如および三宝(仏、法、僧)への信、五行=布施・持戒・忍辱・精進・止観(禅定と智慧)。『大乗起信論』では第二正宗分の第三段解釈分で詳説されている。
本書は唯識の専門家である優れた仏教学者竹村牧男が、向学心ある仏教学徒にむけて行った講義をベースに再構成書籍化したもので、『起信論』をよりよく理解するために、法相唯識の教理と対比させながらテキストを読み解いていうところに特徴がある。また、小乗と大乗の悟りの違いに言及することが多いことも特徴としてある。
小乗と大乗の悟りの違いは、衆生救済の菩薩道にかかわる智慧の位相の有無で、こちらは大乗的立場からの立論という割り切りからもわかりやすい。それに比べて法相唯識と『大乗起信論』のあいだの差異は、決定的でありながら、根本における暗さ或いは希薄な幽さのようなものに覆われていて、識別したままの状態でいることが難しい。

『起信論』では、智慧と一体となっている真如が、無明に無明・煩悩に働きかけて(熏習して)、無明・煩悩を薄めていきます。しかし一方、無明・煩悩が真如に熏習して、その迷いを深めていきます。そういう両方の側からの熏習が説かれます。
しかし、唯識では、そのようなことは説かれません。あくまでも種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)・現行熏種子です。実際に見たり聞いたり考えたりの識の働きである現行が種子を阿頼耶識に熏習するのであって、直接に何か煩悩のダルマが真如・法性に熏習するというようなことは考えられていないわけです。
(第4章 正しい教えを明かす(一)―正宗分(二)「覚・不覚の関係」より)

違いの指摘も、配慮すべきポイントも明示されているので、気になるようであれば、自分で納得できるまで探求を深めていくことが期待されているのだろう。もう少し、取り入れやすい手軽な助けが欲しいとも思いはするのだが、丁寧に読み返せば、それはきちんと埋め込まれていたり、無視できないほどの明示的な導きの手が出ていたりするので、あとは読み手側の利用法や参画法に左右されるのだろうと思った。
著者側には過不足はないであろう良書だと思う。ただしちょっと本格的仏教者よりの著作。

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【付箋箇所】
4, 8, 12, 49, 63, 65, 68 98, 112, 130, 139, 148, 153, 158, 165, 172, 180, 182, 216, 220, 261, 269

目次:
第1章 『大乗起信論』について
第2章 三宝への帰依―序分
第3章 書かれた理由と主旨―正宗分(一)
第4章 正しい教えを明かす(一)―正宗分(二)
第5章 正しい教えを明かす(二)―正宗分(三)
第6章 誤りを正し、覚りの道へ進む―正宗分(四)
第7章 信心のあり方と修行の功徳―正宗分(五)・流通分
あとがき


竹村牧男
1948 -