蛸のイメージの変遷を、古代神話からロマン派の空想世界の魔物を経て現代の合理的解釈と精神分析的解釈まで概観し、物に対して想像力が働く様相を明らかにしていく、関心領域の広いカイヨワならではの類を見ない思索の結晶。蛸に親しみを抱いて文化に取り込んでいる日本については特に一章を割いて別途論じているところも興味深い。近世以降では人に害を加える大蛸のイメージが強い西洋のイメージに対して、日本の蛸は「人間に好意的で、賢くて、遊女たちのお守りになり、世話好きだが、同時にいたずらで、好色で、大酒のみ」というイメージをもって親しまれている。江戸期の『本草綱目啓蒙』や昭和の特撮モノガイド『原色全怪獣怪人大百科』まで、資料になるものにはすべて眼を通していそうなところがあって、感嘆の声が漏れる。
頭足類の蛸の頭は実際は胴体ではあるが、その形態と目の位置から生きものの頭部に擬せられやすく、擬人化もしやすい。カイヨワは擬人化という言葉は使用してはいなかったが、抱きつき取り込むような足とその吸盤とともに、知能が高く情念も強い悪魔的存在のイメージが広まるためのフォルムを備えていることが蛸を特殊な生き物とさせてきたようである。
収録されている図版には、ドニ=モンフォールの「船を襲う大だこ」やジュール・ヴェルヌノ『海底二万里』の挿絵、ヴィクトル・ユゴーによるデッサンなど有名どころにまざって、北斎描く「湯女とたこ」が紹介されているのが目を惹いた。「蛸と海女」のほうが通称としては多く使われているこの春画は、図版では白黒であるためもあって、エロティックというよりも、まず形態の美しさを私は感じ取った。比べていいものかどうか、はなはだ自信はないのだが、ベルニーニの「聖テレサの法悦」や「福者ルドヴィカ・アルベルトーニの法悦」とついつい並べてみたくなってしまう。片や性的恍惚、片や宗教的法悦、片や東洋の平面、片や西欧の立体ではあるが、フォルム的にはそれほど違いがないともいえるし、作品としての技巧の高みも共鳴し合う部分も持っているのではないかと思っている。カイヨワのイメージの考察とともに北斎の版画の印象が今も強く残っている。
参考:
【付箋箇所】
1, 24, 86, 93, 103, 108, 145, 146, 149, 151, 156, 159, 181, 193, 206, 209, 210, 220, 224, 228, 230, 235, 237, 257, 258, 263, 284, 294, 314
目次:
日本版への序
序言
用語について
第一部 幻の発生
Ⅰ 古代地中海地方でのたこ
Ⅱ 「クラケン」から「超巨大だこ」へ
Ⅲ 科学のためらい
Ⅳ ロマン主義文学と蛸
Ⅴ 「蛸のボズウェル」
Ⅵ 日本における蛸
Ⅶ 最も新しい変身
第二部 神話の勝利
Ⅰ 大ヤリイカ
Ⅱ 吸盤か毒液か、触腕かくちばしか
Ⅲ 絹のまなざし
Ⅳ 好色さ
Ⅴ 脅し
Ⅵ 頭
エピローグ
原注ならびに訳注
解説―知的蛸としてのロジェ-カイヨワ
Ⅰ 『蛸』について
Ⅱ カイヨワの作品と思想の展望
Ⅲ カイヨワの方法
Ⅳ 要約
『蛸』―新版のための解説