読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

入沢康夫『遐い宴楽 とほいうたげ』(書肆山田 2002)

なぜ詩を書くのか? 傍から見ていてどうにも理解がおよばぬ人はいる。

私にとって、入沢康夫はそういう不思議な詩人の一人。

比較的よく読んでいる詩人であるにもかかわらず、相変わらずよくわからない。

業としかいいようのない何かを背負っているらしいことはかろうじてわかるが、そのまま自分に転用して、世界を別様に見るというところに連れていってもらっているのかどうかは不明。

異物と異物でないものの中間にあるものに、強制的ではなく、視線をうながすような視点とことばを提示しているところは押し付けがましくなく、自然に読み手の心にかたりかけてくる。

日本語で現代詩を読むということは、自分にはよくわからない人がいるということを知るための、ひとつの手段でもあるのではないかと、入沢康夫を読むたびに思いもする。

「刀刃路」とか
「鉄棘林」とか
「血の池」だとか
「針の山」とか
そんなのはないんだらうね
何一つないんだらうね
あつたら大変だ。

入澤康夫は詩のなかで何一つない「シニカルな喜悦」と言うのだけれど、名指す言葉が存在する限り、存在がないとは絶対的にはいえない。「あつたら大変だ」といっても、言語的にはどうしようもなくあるので、大変を受けいれるほかないというのが実状であるはずだ。

宴は宴でも、そうそう浮かれてはいられない宴がくりひろげられていると、一読者としては思っている。ずっと。

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目次:
旅するわたし
*
その塔にまつはる流言
邪淫戒
河、その中洲で
展墓
毛羽立つ野づらで
イキャ サチナ
森を行けば……
燃焼
戯け唄
*
遐い宴楽


入沢康夫
1931 - 2018