読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アウグスティヌス『神の国 (ニ)』(服部英次郎・藤本雄三訳 岩波文庫 1982)

聖霊と天使の違いは何でしょう?

といった問いは、本書が扱うアウグスティヌスの議論にはない論点だが、『神の国』の第6巻-第10巻までの異教徒の哲学への批判を読むに際して事前に知っておいた方がよい情報であると、本書通読後に私は思った。
聖霊キリスト教の三位一体の第三の位格(ペルソナ)で、神のひとつの現われとして在るもので、創造されたものではない、始源から在る存在。それに対して天使は神によって創造された被造物。両者は質的に異なり、無限の差異があると考えておいた方がよいと思う。
始源としてある神の本質と、父なる神,子なるイエス・キリスト,父と子から永遠の愛として出る聖霊の、三一の構造をもとに思考される神と人間との中間領域にある被造物として存在しているダエモンギリシア語: δαίμων - daimōn; ラテン語:dæmon, daemon; 英語: daemon, daimon)と、受肉して言葉を発することで被造物としての人間に関わることが可能になった子としてイエス・キリストを巡っての神学的な論考がいくつかの角度からなされている『神の国』の第二パート。
創造者たる神と被造物としての人間との質的差異の中間領域で、無限の至福に正しく接続することを担うために受肉し神の言葉を繋いだイエス・キリストとの永遠のカップリングと、被造物側の限定された欲望に一時的に応えるだけの悪しき天使との至高者抜きのカップリングの差異が、五巻それぞれの視点から観察されていく。
そのなかでも緊張感に満ちているのは、論理展開にかなりの並行性を持つと認めつつ論じているプラトンの哲学と新プラトン主義を扱った第九巻と第十巻。哲学的に捉えられたダエモンと、始源の神には届かない悪しき天使たるダエモンの重ね合わせと、被造物の世界内での救いのなさの論証は、ひとつの世界観として完結していて、見事といってもよい感じがする。
私のような無神論懐疑論者に対する態度も明示されていて、敵視の対象とはなっていないながら、考慮の対象外であると示されたことにはすこし物足りなさが残った。


一読して、ソクラテスの生涯を左右したダエモン(ダイモン、デーモン)の言葉が、キリスト教的に評価の危うい言葉であると指摘されたことに、少なからず動揺を覚えた。
五世紀初頭に書かれたアウグスティヌスの著作ということで、古典作品として落ち着いて味わうという姿勢ももちろん大切で、解決済みであるかもしれないことをことさら騒ぎ立てることはないのだけれども、この異教の天使・デーモンの存在領域の話題は、ちゃんと読み込むべき資料のような印象を持った。

 

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【付箋箇所】
43, 59, 133, 35, 136, 171, 176, 196, 218, 251, 256, 265, 268, 269, 278, 287, 301, 337, 388, 410

 

アウグスティヌス
354 - 430 
服部英次郎
1905 - 1986
藤本雄三
1936 -