読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

高橋睦郎『永遠まで』(思潮社 2009)

翁なのか、幼児であるのか、はたまた、生者であるのか、死者であるのか、いずれでもなくいずれでもあるあわいを生きていることはそれぞれの詩が強烈に主張しているけれども、70歳を迎えた身体からくりだされることばは、時間と空間の閾に通路を拓きながら、いずこともなくただよい吹き抜けている。

定住者ではなく、漂泊者。流離しつつ生きるほかない存在。

詩人自身の境涯を確認しながら、親和的な境遇の人物たちに贈る詩のことば。

死の向こう側にあるものと生きてあるもの双方に通じることを職として受け入れるさだめに導かれたような詩人のことば。

あくまで現実世界に存在することばに依りながら、彼岸此岸の境界を超えた、虚であり実でもある根底の幽明界とでもいうべき世界に触れている作品であると思う。

死者をめぐっての哀悼の詩に、境界崩壊のアプローチはより鮮明にあらわれているが、生者に対しての称揚顕彰の詩に関しても、詩人の自我の壁が崩れながら同調するような親愛の表現にあふれている。

だからといって甘くはない。むしろ、緊張感のあるすがすがしい空気感が横溢している。

憑依と覚醒のあわいをくぐり、あくまで自と他の存在の差異を認めつつ共存を歓び、かつその隔たりを哀しみ愛おしむ。

いくつかの詩作品で、ことばと愛の対象を変えながら、くりかえし変奏されていく高橋睦郎の幽明界を往還する詩情のかたちのうちで、たとえば自身を「ウェアリスト」と規定していたファッションモデル山口小夜子に憑依して書かれたかのような追悼詩篇「小夜曲」を構成する次の詩句などに、この著作がまとめらる意味が凝縮されてあらわれているような印象を受ける。

布を裁ち ミシンを踏む学校
教科書で指名され 立ちあがり
読まされて 忘れられない一節
「化粧術は死者をよみがえらせ
衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」

山口小夜子が通っていた服飾系の学校で実際に使用されていたテクストによるものかどうかはわからないが、きわめて印象的な章句である。山口小夜子もそうであろうが、高橋睦郎もまた、テクストを読み取ることで、ことばの核心を刻印して生涯持ちつづけ、さらには変容できる人物であった。

そのひとつの証明として、本詩集がある。

そんな風に読み、読み返してみた一冊。

 

高橋睦郎
1937 -