読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

松長有慶『空海』(岩波新書 2022)

新書で手に入りやすい空海最新入門書。真言宗僧侶で全日本仏教会会長も務めた高僧による、空海の著作をベースにした思想伝授に重きを置いた解説書。
近作には、『訳註 秘蔵宝鑰』(春秋社 2018)、『訳注 般若心経秘鍵』(春秋社 2018)、『訳注 即身成仏義』(春秋社 2019)、『訳注 声字実相義』(春秋社 2020)、『訳注 吽字義釈』(春秋社 2021)、『訳注 弁顕密二教論』(春秋社 2022)とあるので、そのなかで生まれ出た確かな著作かと想定される。
90歳を越えての濁りなき著作というだけでも立派(読んでいる最中に年齢を感じさせないところも、また立派)。
私は個人的には一元論信奉者であって、すべての境界を極限的に撤廃する境界なき世界観に共鳴する傾向にあるので、すべてが大日如来に帰するとする空海の思想には親和的である。垂直方向も水平方向もない一元的世界観。
空海の活躍した9世紀初頭の思想界においては、ブラックホールダークマターダークエネルギーなどの観測の負の作面に浮かび上がる事象については想像も及ばない事象ではあったが、大日如来一元論からすればそれも曼荼羅に描かれる事象のひとつに吸収される。外部がない世界という思考の枠組みが何があろうと驚きを軽減し、その上で驚きなき世界という驚きを再提示してくれる。
究極には何らかの統一原理がありそうな世界のなかで、理性を超える想像力の活動力と、想像力に勝る理性の調整力のふたつが止むことなくせめぎ合っている。世界の究極の姿の顕現に立ち会い、その姿を後世に伝える使命を与ったと自他ともに認めた空海は、恩師恵果の教えに従って日本の地で教えを広めることに尽力する。
いま現在、仏教が科学の後塵を拝している状況は否めないが、空海の時代においては仏教が科学や工学や文学を圧倒的に導いていた。それは時代的な要請のもとにあってのことではあるが、21世紀初頭の今時点での仏教の異議もどこかにあるはずだ。本書は近代科学文明の隘路に対する突破口として空海の思想を掲げてもいるが、そう容易にいくとも考えづらい。失敗して事後調整していくなかでの次善の選択肢や希望のひとつくらいに考えておいた方が働きがいがあるのではないかと思う。
とりあえず今の時代に空海的な人はいないし空海的な万能人はいない。
1200年たって日本の状況は平安の時代よりもより複雑化していて事を起こすにもより慎重な配慮が要求されている。
平安期のカリスマの突出した技能と政治力は、現代においては複数の個体によるアレンジメントにとって代わる必用があると思われる。空海的な超人は嵯峨天皇のような文化的にも政治的にも一種独裁者的な存在とともに輝く存在で、現在のような時代に即したものかどうかはかなり微妙ではあるが、そのなかで空海の主著がどのように書き換わる可能性があるか考えるのも一つの課題になるとは思う。1200年前の著作をそのまま鵜呑みにすることを空海が望んでいるとも思えない。
いまを生きる空海がいるとすれば、彼が何を書くか、想像しなければいけない。

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目次:
1 果てしない宇宙と有限世界
2 自然観
3 対立と融合
4 自と他
5 読み替え
6 仏陀の説法
7 教育理念
8 国家と民衆
9 生死観
10 入定信仰

空海
774 - 835
松長有慶
1929 -