読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ポール・テヴナン編 アルトー/デリダ『デッサンと肖像』(原著 1986, 松浦寿輝訳 みずず書房 1992)

本書を構成するジャック・デリダアルトー論「基底材を猛り狂わせる」は、みすず書房から単独出版されていて、こちらの方が本体2400円と値段も安いこともあって、よく流通している。私の所蔵しているのもこちらの版であるが、今回縁あって、本来の造本の形態である本書の形態、アルトーのデッサンと、アルトーの遺産管財人でもあるポール・テヴナンのアルトー論「失われた世界の探究」と併載された、アルトー画業の集大成の一冊として、新たに読み直してみた。本体20000円の本作品は、刊行後数年経ってまだ在庫が店頭に並んでいた池袋の三省堂二階で手に取ってみたものの、さすがに気軽に手が出るものではなかったことが記憶に蘇る。

また、今回、別途調べてみると、松浦寿輝の翻訳の仕事はかなり少なく、本書以外では、フランスのSF作家ミシェル・ジュリの『熱い太陽、深海魚』と、後は二人の映画監督の著作、ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』とヴィム・ヴェンダース『エモーション・ピクチャーズ』があるのみなので、松浦寿輝の訳者としての存在もかなり貴重だということが分かった。シュルレアリスム近辺の表象文化に関する研究が専門であるから、アルトーも視野に入るのはおかしくないし、時代的にポストモダンの著述家たちに深く関係しているのもおかしくないが、松浦寿輝の資質的には、画家であれば後年自作の小説『半島』の表紙に採用したヴィルヘルム・ハマスホイのような静謐かつ幻想的な作家のほうがしっくりくるし、著述の面ではロラン・バルトのようなエレガントなスタイルの作家に親和的であるような印象がある。静のなかの妖しい変様を描くのが得意であると思われる作家が、どちらかといえば攻撃的で奇矯ともいえる作家の作品を訳していることは、考えてみると興味深い。編者ポール・テヴナンも一筋縄ではいかない主張の強さを持った人物で、どのような関心のもとに仕事を引き受けたのだろうかと探ってみたくなる。時代的には、詩集として『女中』(1991)を刊行し、評論集『平面論 1880年代西欧』(1994)に収録される論考を準備していた時代で、かなり充実した仕事をしていた時期でもある。一貫して基底材としての身体の変様と言語の変様に関わるという点では共通した仕事をしていると見てとれるのだが、松浦寿輝ジャック・デリダ、アントナン・アルトーという組み合わせは異質感があって面白い。翻訳に時間がかかったというのも、デリダアルトーの特異さに加えて、資質の違いを乗り越える努力が要ったためではないかと勝手に想像する。

デリダアルトー論「基底材を猛り狂わせる」だけではなく、刊行者の意図としてポール・テヴナンのアルトー論とアルトー自身の絵画作品を同時に触れることによって得られるのもはかなり大きい。さらにデッサンを含む手帖の写真図版やアルトー生前のスナップショットなどからはじめてわかる人物像もたいへん貴重である。それにもまして、デリダアルトー論「基底材を猛り狂わせる」が、前提としているポール・テヴナンによるアルトーの肖像、そしてアルトー自身の手になる書き残されたものの数々とともに読まれることで、よりデリダの意図が汲み取りやすくなっているのが気持ちいい。読み返しの効果もあってか、本書のアルトー論が、単にアルトーを論じているばかりでなく、デリダの一貫した関心のもとに記された著作であることも読み取れて、感慨深かった。

デッサンは単語から、分節言語の口述性から文字を詐取してくるのだが、にもかかわらず分節言語の純粋な音響性は、基底材の上にじかに湧き出してくるのである。極限まで行くと、この文字還元は、舞踏そのもののうちで支持体を廃棄することをめざすことになる。そのとき舞踏は主体も客体もない一つの文法の絵文字法=舞踏術となるだろう。
(「基底材を猛り狂わせる」より)

 

www.msz.co.jp

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【付箋箇所】

アントナン・アルトー
1896 - 1948
ジャック・デリダ
1930 - 2004
松浦寿輝
1954 -