読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャック・デリダ『コーラ プラトンの場』(初出 1987 ジャン=ピエール・ヴェルナンへ捧げられた共同論文集, 原著 1993, 守中高明訳 未来社 2004)

『コーラ』は古典ギリシア学の大家ジャン=ピエール・ヴェルナンに捧げられたデリダの論文で、ロゴスとミュトスの彼方、感性的なものでも叡智的なものでもない第三のジャンルに属するという、プラトンがコーラの名で示しているものをめぐっての考察である。

先日読んだデリダアルトー論「基底材を猛り狂わせる」にも、コーラについて言及が複数回あったのだが、支持体としての紙や、言語や行為を生む身体とからめての言及で、本書のコーラについての言及のしかたとは、かなり異なっているような印象が残った。

本書はプラトンの『ティマイオス』のコーラについて語られる場面を何度となく呼び寄せながら、コーラとはどのようなものであり、どのようなものではないかを、幾重にも重ねて浮かび上がらせようとしている。決定的な定義は回避されているようでありながら、コーラの特性としては、言葉が発せられる場、名が呼ばれることになる場、言葉・存在が創造される場であり、はじまりの彼方として事後的に到来するものであると語られているようだった。名づけえぬものに名づけようとしながら名で拘束しないことが求められているであろう場。コーラは、物理的な場所というよりも、詩や演劇が創造される体制として複数の人間が一堂に会している場所を本論考は想像させる。『ティマイオス』でコーラについての話が出てくる場面を取り上げるデリダが、語るクリティアス、ティマイオスと聞くソクラテスという関係性を強調していることも、コーラが物理的な空間であったり、図式的に理解される構造のようなものであったりするわけではないことに、読者の注意を向けようとしていると感じられる。すっきりした理解には届かないけれども、今回はこんなところでデリダの『コーラ』のページを閉じたい。

なお、訳者解説で、デリダのコーラ読解がジュリア・クリスティヴァの「記号象徴界と前-記号界との弁証法という基本図式」に対する批判となっているという説を開陳してくれているところなど、参考になった。


【付箋箇所】
24, 31, 34, 39, 54, 88, 103, 107, 113

ジャック・デリダ
1930 - 2004
守中高明
1960 -

参考:

uho360.hatenablog.com