読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

カトリーヌ・マラブー二冊『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(原著 2009, 訳:鈴木智之 法政大学出版局 2020)『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(原著 ,2004, 訳:桑田光平+増田文一朗 春秋社 2005)

脳の可塑性について、どちらかといえば後天的に発症する機能障害の悲劇的側面に対峙することでもたらされるものを考察していこうとする試みの書。

脳の機能は可変的で後天的に損なわれることもあるということを基本として、人間の意識の活動を捉えようとしているのが、カトリーヌ・マラブーの方向性ではあると思うのだが、結局のところ何を伝えたいのか不明瞭であるところが、読後もどかしく感じている。

日常が破壊される可能性があることに思いを致すことの先に何があるのか、いまいち不明瞭である。

カフカ的変身への適応準備を促しているようではあるが、それは己を決定的に失わずにいるための余地が必要であることを訴えているだけで、具体的な方策が提示されているわけではない。ただ単に、思いがけいケースに出会うことの可能性を考慮しておけというメッセージばかりが印象としては残る。

脳が物理的に損傷してしまうケースもあり、それは自分の意志や周囲の働きかけではどうにもならない場合も多い。

例えば老年性痴呆症、老年性鬱病に対して、そうなる可能性が万人にあることを示して、それに対する思考を促す効果はあるものの、現実の状況打開には、ほとんどなにも貢献していない。

ただ、学問的に発達したニューロサイエンスと哲学的思考を結びつけて考えることを当たり前のこととして、最新科学と哲学の共同から新しい精神に関する研究に道を拓こうとしているところにはためらいなく共感できる。フロイト的な性の一元論から物理的な脳の機能の解析へのシフトは、エネルギー備給とその消費がより明確化されるならば、なにも遮る必要はない。

現時点ではまだ脳科学と哲学的言説が精神分析的言説を完全に凌駕できていないところに問題があるというふうに、カトリーヌ・マラブー自身が言っているように私には読み取れた。

 

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【付箋箇所】
『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』
4, 6, 7, 8, 10, 26, 27, 28, 30, 32, 34, 35, 149, 157, 162, 173, 174, 178

『わたしたちの脳をどうするか ニューロサイエンスとグローバル資本主義
16, 22, 31, 43, 61, 62, 81, 84, 86, 100, 116, 123, 161, 166, 168, 174, 197

カトリーヌ・マラブー
1959 - 

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