エリオットの「ゲロンチョン」のエピグラフがシェイクスピア『尺には尺を』の第三幕第一場の公爵のセリフからだったので、全体も読んでみた。
Thou hast nor youth nor age
But as it were an after dinner sleep
Dreaming of both.
[思潮社 エリオット詩集での上田保の訳]
お前には若いときも老年もない
まるで、それを夢みる
食後の昼寝のようなものだ。
[小田島雄志訳]
おまえには青春も老年もない、
あるのはただその二つを夢見る午睡だけだ、
小田島雄志訳ではさらにこうつづく
若さに恵まれているあいだは富には恵まれず、
痛風病みの老人に物乞いをせざるをえない、
そして年をとって富を手に入れたときには
情熱も意欲も健康も美も失い、せっかくの富も
享受できなくなる。これでも人生の名にあたいする
なにがあると言えよう?
死刑宣告を受けたクローディオに死を受け容れるよう諭すための公爵のセリフ。エリオットの「ゲロンチョン」は小さな老人という意味の造語で、上記セリフの老人側のすがたが重なる。話の全体としては『尺には尺を』と「ゲロンチョン」のイメージが重なることはないのだが、印象的なセリフの一部を引き抜いて自身の作に利用する技の切れは、さすがエッセイ「伝統と個人的な才能」を書いた人物だけのことはある。
伝統は大切にしなければ文芸の世界は尻窄みになっていく。
シェイクスピアの劇作品は、日本語訳で読んでしまうと忘れがちになるが、韻文で書かれている。日本で言えば謡曲的な位置のものだろう。中世から近代にかけての詩の厚みを取り入れてこその文芸だとは思うが、一九二〇年にアメリカでラジオ放送が始まって以来いまでは学生でもスマートフォンをもつのが当たり前になってきていて、文化の沈殿物とじっくり付き合うのはなかなか難しいし、それを共通資産として扱うのは輪をかけて難しい。まずは自分自身がちょっとづつ古典に向き合うことで、可動域をかすかでも広げていけたらと思っている。
ウィリアム・シェイクスピア
1564 - 1616
小田島雄志
1930 -