読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

谷口江里也『ギュスターヴ・ドレとの対話』(未知谷 2022)

スペイン文化に造詣が深く現代日本語圏におけるギュスターヴ・ドレの伝道者ともいえる谷口江里也によるギュスターヴ・ドレへの手紙形式の散文頌歌。ドレが五歳の時に描いた『ラ・フォンテーヌの寓話』のなかの「アリとキリギリス(セミ)」の最初期の絵からはじまり、51歳で亡くなるまでに物した膨大且つ繊細な業績の数々を、基本的には年代を追いながら跡づけていく、愛にあふれる書物。

142点の鮮明なドレの木口木版画の図版とともに写真などの新しい複製技術が発達しながら大衆消費社会が爆発的に広がっていった時代の寵児たる芸術家の姿を描きだしているところは注目に値する。


描きすぎて場面を構成する人物や取るにたらない事物までもがそれぞれ鮮明すぎるため、画面を構成するヒエラルキーがぼやけてしまって物語のバランスが崩れてしまっているといるということは否めない。整いすぎているがために生じている、劇的構成が望まれる場面でのアンバランスを感じる。主題と背景とのメリハリ、コントラストが弱いために、絵の焦点が複数化されたうえに相殺されてしまい、絵の主題が平板化されてしまっている。部分的に近づいて見れば個々に最高度の表現であるにも関わらず、総体的に見ると表現のエネルギーが分散され、互いに減算するように力がはたらいてしまっているところに一枚の絵としての弱さがある。

ただそれは、ドレによって表現された世界を、版木もしくは刷られた版画によって、外側から鑑賞した時に生じる感覚で、外側から鑑賞していた自分自身が、版画の世界内に飛び込んで、どこかの地点からその世界を見たと仮定すると、たちまち世界はリアルなものとなり、自分自身も彫刻刀によって創り出された描線と陰影のみからなる存在、それでいてその世界での十全な存在であると感じるようになる不思議さをも持っている。

ドレが描くことでより可視化され現実化した世界は、多くの人間にとって受け入れやすく整えられたものではあったが、人並外れた優れた技巧によって生み出された整いすぎた表現は、見る者にどこかしら疎遠なところを残さずにはいない。あまりにも正確、あまりにも克明、あまりにも理知的であるがゆえに、救いようがなく、容易な希望や解決策を認めない画だ。

技巧的に最善最高で、描かれた対象としても最も現実的で最も情動的な作品に部類する『ロンドン巡礼』は、カール・マルクスが『資本論』を執筆した時代の世界最先端の資本主義都市ロンドンの闇の部分を記録した稀有な仕事ではあるが、やはりどこかしら冷たいというか、描写優位の冷徹さ、資料的価値観優位の素っ気なさがある。リアルであるがその場面を見ている人の視線は超越的で容赦がなく、未来への救いが見えず、現状をただ認識するほかはない。ただ、目を背けず、事態から逃げずに、あるがままのところからはじめるしかないということが静かに(やるせなさと憤りとともに)伝えられている。

うますぎる技術は、時に制作者の思いを超えて技巧の側に目を向けさせてしまいがちではあるが、リアリティを積み重ねた表現が現時点で持っている均衡状態の次に現われて要請されるであろう事態を予感しつつ対峙することが、ドレを鑑賞する場合には必要であるようにも思う。

前景と背景と主題が同じ粒度、同じ精度で描かれていると、絵画のみに対峙する場合に鑑賞者としては戸惑う場合が多い。ドレの作品の多くは古典や聖典の挿絵として創られたもので、本文とともに鑑賞する場合にはおそらく需要者の感覚を乱すようにはたらくことはほとんどないと思われる。画面に描かれた細部が過剰となり、非現実の疎隔感が生じてくるのは、絵の物質感・現実感がテクスト以上のものを語りの遠近法を超えて明瞭に示すようになってしまっているためであるようだ。描き手の描線の個性的なタッチが残るような素描的な作品にくらべれば、抑制のきいた均一の描線で構成された作品は、感情の世界を超越した理知的な世界判断を要請する世界を構成している。文章がある場合には文章優位で、独立した描画世界としては鑑賞しないでいる挿絵も、挿絵作家の作品として単独で鑑賞する場合には、描かれた場面の主題以上のものが見つづけていく分だけ見えてしまってくる。よりよく描かれている作品であればあるだけテクスト本文とは直接的には関係を持たない余計な画像が見えてくる。

基本的には一般読者を超えるテキスト解釈とテキスト補完を挿画家が行って(作者存命の場合には許諾を得てテキストとともに掲載して)いることなので、読者は著者創作活動の批評の一環として受け止めればよい。挿絵としての評価の場合はテキストとの兼ね合いで行えばよく、挿絵をテキストと分離して単独作品として見る場合には、創作経緯のもとに表現の質を判断すればよい。

違いが分からなければとりあえず比較あるのみ。

美しすぎて非現実的な疎隔感のあるドレのいくつかの作品に共通しているのは、(主観的なものを含めて)遠近法を無視した常に明瞭な世界を描きだしているケースに当たっているような印象がある。画面全体に焦点が合うはずはなく、どこか朦朧な部分はあるはずだ。細部まで克明に描かれている場合も、細部にどれほどリアリティがあり破綻なしに画面が構成されていても、全体的な印象としては親密さに欠けてしまうことが多い。

精緻さと親密さ、外観の写実性とリアリティ。超絶技巧をもって世を渡った人の両傾向の作品が、創作物に対する人の受容と応答のいくつかのパターンを教えてくれているようで、興味は尽きない。テキストと挿絵との関係性の最良の釣り合いについても提供されている多くのケースから色々考えさせられる。

また、ドレが残した作品の現代における最良の享受方法についても本書はサンプルを提供していて、ドレの『神曲』の版画をロックのライブで大画面にテキストと混合して投影したときの興奮を紹介していたりもする。私の印象では、ドレの版画は枠を強調して画面に注視を促すことで情動への効果を高める外傷性的な作品であるよりも、描かれたものの枠を忘却し、描かれたものの内側に没入することで異世界感を我が事とすることによって影響するような感染性のある作品であるような印象を持っている。いま実現可能なテクノロジーではVRに親和性のある世界であるように思う。今現在の標準的な感官・感性に負けない表出の質と量を持った19世紀人の創作がひとまとまりあるということは、知っておいても無駄にはならないとも思う。

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【目次】
第1話 ドレが描いた最初の絵
第2話 アリとキリギリス
第3話 才能と表現力の告知
第4話 自ら切り拓いた道
第5話 幻想の共有
第6話 ドレの肖像写真
第7話 私が見た最初のドレの絵
第8話 美しい悪魔
第9話 ペローの昔話
第10話 風刺画
第11話 ドン・キホーテ
第12話 ロマン主義
第13話 クロックミテーヌ伝説
第14話 神曲 煉獄篇、天国篇
第15話 ドレ的な表現1 ライティング
第16話 ドレ的な表現2 群像
第17話 ドレ的な表現3 近景と遠景
第18話 ドレ的な表現4 墨色の効果
第19話 ドレ的な表現5 ペン画のような版画表現
第20話 ドレ的な表現6 ハーフトーン
第21話 ドレ的な表現7 大空間
第22話 ロンドン
第23話 スペイン
第24話 ラブレー全集
第25話 老水夫行
第26話 1字軍の歴史
第27話 狂乱のオルランド
第28話 大鴉

【付箋箇所】
8, 10, 13, 14, 16, 21, 30, 35, 41, 42, 46, 52, 63, 65, 68, 70, 71, 77, 79, 81, 83, 90, 92, 96, 101, 107, 108, 116,118, 120,1, 131, 133, 136, 138, 143, 144, 147, 159, 161, 167, 175, 176, 178, 179, 180, 183, 189, 191, 206, 255, 236, 237, 238, 241, 242, 243, 248, 257, 266 
※著作本文よりもドレの絵をチェックしたケースのほうが多い

谷口江里也
1948 - 

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ギュスターヴ・ドレ
1832 - 1883

ja.wikipedia.org