読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』(原書1930, 1953 岩波文庫 2006)

批評は科学というよりも芸道で、学んだからといって誰もが道具や技術を獲得できるわけでなく、読解のセンスがものをいう。だから批評自体が面白く、扱っている対照が魅力的に見え、読者に自分も読んでみたいと思わせることができたら成功だ。エンプソンの『曖昧の七つの型』はそうした意味では大成功の部類の批評作品ではないかと思う。扱っている対象がシェイクスピアやT・S・エリオットの英詩なので、本当のところは英語と英文学に親しんでいるネイティブでないと微妙なところまでの面白さは分からないかもしれないのアけれど、翻訳でもいいから引用されているものを自力で読んでいきたいと思わせる力が本作にはある。

文芸批評家の立場というものは、科学的というよりむしろはるかに社交的なものである。問題を扱う決定的なやり方というものははじめから存在しない。というのも、人びとがいつも特定の作家を読んでいる場合でさえ、彼らは同じ作家をそのつどちがった読み方で読んでいるからである。批評家の仕事とは、読者のために読者が望むものを引き出してやること、時代の嗜好[テイスト](批評家が作り出すのだと言ってよいかもしれないもの)に形をあたえてやること、である。したがって、文学とは、それが一つの生きてはたらくものであるかぎり、現実に何がそこにあるかについての感覚よりも、むしろ特定の状況を生き抜くために何が必要なのかの感覚を要求するものである。(『曖昧の七つの型』下巻「結語」p331-332)

結論部分で批評家自身がこういっているのだから、本作で挙げられている「曖昧の七つの型」は万能の道具というよりも状況に切り込んでいくためのきっかけあるいは踏切板のようなものであり、本作から離れて読者が自在に使えるようなものではない。読者は著者の読みと語りの芸に感心したら、自分の状況と自分の読み方にあったかたちにしていくよう工夫しなくてはならない。時間はかかるかも知れないが、たんに面倒というのではなく、新たな読みの世界にいざなってくれる実りある工程になるのだと思う。


万能の道具ではないが、一応『曖昧の七つの型』の概要を箇条書き的にピックアップ。

曖昧 ambiguity とは:
一つの表現に対していくつかの可能な反応の余地があるとき、言葉のもつそのようなニュアンスを、それがどんなに微かなものであろうと、すべてわたしは曖昧とよぼうと思う。(上巻「第一の型」p29)

第一の型:細部が同時に数個の方法で効果をもつときに生まれる曖昧
第二の型:二つあるいはそれ以上の可能な意味が一つの意味の中に完全に解消される曖昧
第三の型:一見結びつきのない二つの意味が同時に与えられている曖昧
第四の型:複数個の代替可能な意味が結びついて、作者の中の複雑な精神状態を明らかにする曖昧
第五の型:偶然うまくでき上がった混沌
第六の型:述べられていることが矛盾していたり不適切であったりして、読者は自分で解釈を考え出さなければならないという曖昧
第七の型:完全な矛盾の作り出す曖昧

 

たとえば、第五の型の「偶然うまくでき上がった混沌」など、おおよそ明晰な解釈など期待できそうにもない分類ではないかと予想すると、エンプソンはシェリーの詩をこの切り口で興味深く分析してくれていたりするので、読んでいて非常に楽しい。

シェリーが比喩をうまく思いつくことができなくて、ある対象をそれより不明瞭または抽象的なその対象自体の概念に喩えるとき、あるいは、対象がそれ自体の本性であるとか、対象はそれ自体を支持することによってそれ自体を維持するとか言うとき、われわれは、シェリーの用いる「自らを織り込んだ」直喩を移行的直喩の極端な事例と見なすこともできなくはない。
(中略)
<形相>はそれ自身を正当化する。それは、ちょうど神のように、それが存在するという事実によって自らを維持する。自らの目的を偶像化する詩は、当然そこに神の属性を付与する。
(下巻「第五の型」p88-91)


シェリーの詩に興味がない人にも、エンプソンとともに読みたくなるようにさせる目が覚めるような力強い解釈だと私は感じた。

 

残念ながら現在品切れ中。

上巻 https://www.iwanami.co.jp/book/b247464.html

下巻 https://www.iwanami.co.jp/book/b247465.html

 

ウィリアム・エンプソン
1906 - 1984
岩崎宗治
1929 -