読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ヘーゲル『哲学入門』(ニュールンベルクのギムナージウムでの哲学講義 1809-1811, 武市健人訳 岩波文庫版第1刷 1952) 旧字で避けられてしまうのはもったいない優れた訳業

哲学界の大物ヘーゲルの著作にしては珍しくコンパクトにまとまっているこの著作の中身確認で、好奇心から1952年第1刷発行の岩波文庫ヘーゲル『哲学入門』の不特定ページを開いてみると、旧字の物々しさに「やっぱりダメかも」とたじろいでしまう人も多いかもしれないが、巻末の書誌情報を見るに自分以外にも本書を読んでいる人は沢山いて、現代日本においても半世紀以上コンスタントに版を重ねている信頼の置ける古典なんだよなという読み始めの支えとなる思いもわいてきて、いっちょ読んでみますかと意を決めて読みはじめてしまえば、練達の訳者武市健人による本書で二度目となる訳業の成果としての現代仮名遣いのこなれた訳文は、旧字もまあ乗りこえられるという向きにはなんというかヘーゲル自身が用意した内容の質を落とすことなく参入の閾だけを低くして哲学のいただきに誘い迎え入れてくれている贅沢な哲学体験コースの案内書という感じのするテキストで、読みすすめていくなかほのかに感じる軽快感あるいは爽快さについては、出会うこと稀なかなり特異な体験ではないかと、読了後は満足しながら振り返ってみることができる。

講義の講師ヘーゲルが自身で用意し、当時の生徒が採ったノートの息遣いも合わさったところの文章は、実際の現場に居合わせなかったものにも現場の空気感が伝わるほどほどよく凝縮され、1ページ弱のセクション分割によって哲学の伝達教授の呼吸のリズムにも乗せられて、これは最高級の知性の芸を見せてもらっているのかもしれないと感じつつ、それ自体は動きはしない文字の数々を次々と辿ってしまうという経験をつくりだしてくれているというしっかりとした厚みのある言語空間・言語領域。

表現を尽くした人々たちの手になる言語記号が満足のいく量塊としてあり、それを受け止め味わうことのできる幸せ。そこに、訳者であり注釈者である武市健人の手になる、セクション末尾ごとの長年の研究からみちびきだされたヘーゲル読解のためのコンパクトな追加記述が、心地よい合いの手のような効果まで付け加えてくれている。

これまでヘーゲルに関しては、比較的手に入りやすい『精神現象学』や『法の哲学』には目を通していたものの、実際には実になる読書にはなっていなかったようで、疎隔感ばかりが残ってしまっていたのだが、この『哲学入門』では、ヘーゲル哲学入の門者としてはじめて無理なく手をあげ参入することができたような気がしてきた。次の一歩が無理なく踏み出せそうな、とりあえずの達成感。

本書におけるヘーゲルヘーゲル研究者兼訳者武市健人の共同作業のベストパフォーマンス部分を選ぶというのはちょっと難しい作業だが(難しいというのは、ある程度まとまりのある流れや分量が広範囲にわたるため、引用に適した部分の選択切り出しがちょっと難しいという意味)、たとえば以下のようなとろは間違いなくひとつのサンプルになるだろうと私は思う。

神は絶対精神である。すなわち神は純然な本質である。純然な本質というのは、それは自分を対象とするが、しかしその対象の中にただ自分自身のみを直観するものだということである。云いかえると、それは他のものに成ることにおいてそのまま自分自身に帰還し、自分自身と同等であるようなものである。


武市健人 訳注】
神が絶対精神であるということもヘーゲル哲学の根本思想である。そしてその絶対精神である神が「他のものに成りながらも、何時も自分自身に帰っている」ものであり、神自身においては増しも減りもしないという考えが元にあって、そこから論理学その他の反省関係のむつかしい論理的表現が出て来る。それで、この宗教論に現われている根本的な点を、私たちは見失わないようにしておく必要がある。


ヘーゲル『哲学入門』 武市健人岩波文庫 第一課程 法理論、義務論、宗教論 第三節「宗教論」p120 太字は実際は傍点)

 

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自力でヘーゲル自身に向き合うためには、もってこいの導入書となるのではないかと思う。


ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
1770 - 1831


武市健人

1901 - 1986

トニー・ジャット『荒廃する世界のなかで これからの「社会民主主義」を語ろう』(原書 2010, 森本醇訳 みすず書房 2010)語り方を変えてみましょうという誘い

コロナ禍でますます荒廃に拍車がかかりそうな世界のなかで、行動抑制下余裕ができた時間を使って、イギリスの歴史家の最後のメッセージを拝読。筋委縮性側索硬化症(ALS)が進行するなか、口述筆記で書かれたとは思えないほどの眼を見張る先行文献からの引用をちりばめた力強い著作となっている。

混乱期に国家行政ばかりが出張ってくるのはあまり心地よいものではないけれども、サービス一般が民間セクターばかりに頼るようになってしまったことで出てきた弊害を公共センターの立て直しによって除いていかなければならないという本著作のトニー・ジャットの危機感はひしと伝わってきた。また、現在に対する経験したことのない閉塞感についても悲しいくらいに共感できる。

わたしたち欧米で暮らす者は、経済の無限の進展という幻想に包まれて、長い安定の時期を過ごしてきました。しかし、そのすべてが今や過去のものとなりました。予見可能な未来に関して、わたしたちは経済的には深い不安定に陥るでしょう。確実に言えるのは、第二次世界大戦以後のどの時期と比べても、わたしたちは自分たちの共通目標や、環境の健全さや、自分の身の安全などに確信がもてなくなってきている、ということです。わたしたちには、自分の子どもがどんな種類の世界を引き継ぐのか、まるで見当もつきませんし、それが今の自分たちの世界と似ているに違いないと思うほど、自分を欺くこともできないのです。
(第6章 来るべきものの形 「怖れの政治学」p237-238 )

ことさら悲観的にみなくても、先行きに関しては壊滅的な状況といってなんの違和感もない現在の世界。しかし、目を背けているだけでは過ぎ去ってはくれない現実のひずみや不安に、まずは目を向けて、怖れや怒りだけではないことばで語ることができないかどうか考えるようにしていかなくてはならないとトニー・ジャットは主張する。それは大げさなものいいではない分、すんなり耳を傾けることができる。

わたしたちの世論を鍛え直すこと――こそ、変革を現実し始める唯一の現実的な方法だと、わたしには思えるのです。今とは違う語り方をしなければ、わたしたちには違う考え方などできないに決まっています。
(第5章 何をなすべきか? 「世論を鍛え直す」p190 )

今を覆っている語りにうんざりしたなら、違った時代の違った語り方に目を向けて、有効性を再吟味してみる。少なくともある一定の時間をくぐり抜けて残った言説を参照してみる。それで考え方や気のもちようがすこしでも変わったら、動けるうちは自分の身を使って動いてみる。減速を強いられている現在の状況の中で、かつての速度感や空気感との違いを比べてみるだけでも、何かしらの変化は出てくるだろう。世論は変えられなくても、私のどこかは変わるかもしれない。

 

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【付箋箇所】
12, 38, 57, 80, 81, 91, 92, 107, 110, 115, 124, 132, 134, 138, 149, 156, 161, 162, 164, 167, 168, 170, 172, 178, 182, 188, 190, 196, 202, 214, 218, 237, 238, 244, 254

 

目次:
前置き 不安と混乱のさなかにある若者たちへ

第1章 今のわたしたちの生き方
 裕福な個人、浅ましい全体
 感情の頽廃
 アメリカの特殊事情
 経済主義とその不満要素
第2章 失われた社会
 ケインズ主義のコンセンサス
 規制された市場
 共同体と信頼と共通目的
 偉大な社会
第3章 政治の耐えられない軽さ
 六〇年代の皮肉な遺産
 オーストリア人の復讐
 民間礼賛
 民主主義の赤字状態
第4章 さらばすべてのものよ?
 一九八九年と左翼の終焉
 脱共産主義アイロニー
 わたしたちは何を学んだのか?
第5章 何をなすべきか?
 異議申し立て
 世論を鍛え直す
 社会問題を問い直す
 新しい道徳物語?
 わたしたちは何を望むのか?
第6章 来るべきものの形
 グローバリゼーション
 国家を考える
 鉄道——一つのケーススタディ
 恐怖の政治学

結び 社会民主主義——生きている部分、死んだ部分


トニー・ジャット
1948 - 2010
森本醇
1937 -

清沢満之(1863-1903)の原稿原文と今村仁司の現代語訳比較サンプル

明治期の清沢満之の文章は今現在でも読めないということはない。特殊用語の注釈が入ってくれていれば特に問題なく読めることは読める。書き手の息遣いのようなものも原文のほうが色濃く感じることもできる。ただ、現代語訳にしてもらえるなら意味内容はとらえやすく、記憶に残りやすいのも確かだ。

清沢満之と同時代を生きた文筆家としては正岡子規(1867-1902)や樋口一葉(1872-1896)二葉亭四迷(1864-1909)などが思い浮かぶ。言文一致の動きが出てきた端境期の作品で、原文と現代語訳の両方読めるというのはある意味贅沢なことなのかもしれない。

 

【原文】

蓋し吾人の道に達し特に進む能わざるは、只自己の云為(うんい)[言行]能力のみを以て道徳を造作せんとするによる。所謂虚偽虚飾偽善偽徳の氾濫するは、畢竟、此が為なり。蓋し道徳を以て一己(いっこ)の私行(しこう)[個人的な行為]となし、その成績によりて以て己が威福[威力や情で他人を支配したり束縛したりする]の資に供せんとするによるものなり。
岩波文庫清沢満之集』精神主義 2-2 万物一体 p82 []内の割注は山本信裕によるもの)

 

今村仁司現代語訳】

考えてみると、われわれが道に達し徳に進むことができないのは、ただ自分の言語能力と行動能力だけをもって道徳を作り上げようとするからである。虚偽虚飾とか偽善偽徳と世にいわれるものが氾濫するのは、つまるところ右に述べたことに由来する。考えてみると、道徳をもって自己一身だけの私行となし、そのできばえに応じて自分の威信や幸福のもとでにしようとするからである。
岩波現代文庫『現代語訳 清沢満之語録』精神主義 2-2 万物一体 p232)

 

現代語訳で思想に触れて、興味を持ったら原文にも当ってみるという順番が入りやすいであろうことは確か。さらに『現代語訳 清沢満之語録』は業績全般にわたっているのに比較して、岩波文庫清沢満之集』は後期思想にターゲットを絞っているという差異もある。岩波文庫では日記などの肉声に触れられるという利点もあるが思想全般を知るには岩波現代文庫版が有利。

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【目次】

安冨信哉編、山本信裕校注『清沢満之集』岩波文庫 2012

第1部 他力の大道
 親鸞聖人御誕生会に(他力の救済)
 我は此の如く如来を信ず(我信念)
 エピクテタス氏
 『臘扇記』(抄)
第2部 精神主義
 精神主義
 万物一体
 自由と服従との共存・共働
 科学と宗教
 精神主義と物質文明
 宗教は目前にあり
 競争と精神主義
 先ず須らく内観すべし
 精神主義と唯心論
 精神主義と他力
 迷悶者の安慰
 精神主義と三世
 精神主義と共同作用
 絶対他力の大道
 生活問題
 宗教的道徳(俗諦)と普遍道徳との交渉
第3部 仏教の改革
 教界時言発行の趣旨
 大谷派宗教改革の方針如何
 仏教者蓋自重乎
 教界回転の枢軸
第4部 信仰の諸相
 仏教の効果は消極的なるか
 他力信仰の発得
 祈禱は迷信の特徴なり
 真の朋友
 『当用日記』(抄)

 

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今村仁司編訳『現代語訳 清沢満之語録』岩波現代文庫 2001

第1部 宗教哲学
 宗教哲学骸骨
 他力門哲学骸骨(試稿)
 縁起存在論
第2部 精神主義
 精神主義
 精神講話
 修養語録
 修養語録

 

 

清沢満之
1863 - 1903
今村仁司
1942 - 2007

文庫で読む清沢満之(きよざわまんし 1863-1903) 読書資料

清沢満之真宗大谷派の僧侶。法然親鸞蓮如に連なる他力の信仰者。東京大学フェノロサからヘーゲルやスペンサーを学んだことで、自身の仏教哲学に西洋哲学を取り込んでいる。有限と無限の考察、遍満する仏を説く汎神論、世界理解に対する数学的アプローチということではヘーゲルというよりもスピノザの思想に親和性があるように感じている。

清沢満之の説く他力は、無限の存在たる如来への信仰、無限の生成である如来への帰依、任運、人事を尽くしたあとの運命甘受といったところ。清沢満之が語る如来諸法無我の法を喚起する傾向が強く、阿弥陀如来の人型の像や極楽浄土のイメージが殆ど浮かんでこないところが現代的。

現在、文庫本で手に入るのは以下二冊。残念ながら両方とも品切れ状態らしいが、発行データを見ても古書や図書館でも見つけやすい部類の本ではないかと思う。他に中公クラシックス中央公論社の日本の名著シリーズでもアクセス可能。

 

安冨信哉編、山本信裕校注『清沢満之集』岩波文庫 2012
今村仁司編訳『現代語訳 清沢満之語録』岩波現代文庫 2001

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【目次】

安冨信哉編、山本信裕校注『清沢満之集』岩波文庫 2012

第1部 他力の大道
 親鸞聖人御誕生会に(他力の救済)
 我は此の如く如来を信ず(我信念)
 エピクテタス氏
 『臘扇記』(抄)
第2部 精神主義
 精神主義
 万物一体
 自由と服従との共存・共働
 科学と宗教
 精神主義と物質文明
 宗教は目前にあり
 競争と精神主義
 先ず須らく内観すべし
 精神主義と唯心論
 精神主義と他力
 迷悶者の安慰
 精神主義と三世
 精神主義と共同作用
 絶対他力の大道
 生活問題
 宗教的道徳(俗諦)と普遍道徳との交渉
第3部 仏教の改革
 教界時言発行の趣旨
 大谷派宗教改革の方針如何
 仏教者蓋自重乎
 教界回転の枢軸
第4部 信仰の諸相
 仏教の効果は消極的なるか
 他力信仰の発得
 祈禱は迷信の特徴なり
 真の朋友
 『当用日記』(抄)


今村仁司編訳『現代語訳 清沢満之語録』岩波現代文庫 2001

第1部 宗教哲学
 宗教哲学骸骨
 他力門哲学骸骨(試稿)
 縁起存在論
第2部 精神主義
 精神主義
 精神講話
 修養語録
 修養語録

 

清沢満之
1863 - 1903
今村仁司
1942 - 2007

エルンスト・ブロッホ『異化』(原書 異化Ⅰ ヤヌスの諸像 1962, 異化Ⅱ ゲオグラフィカ 1964, 白水社 1986)はっきりしないものに輪郭を与え、キツイものを揉みほぐす言葉の力

度重なる亡命と異国の地での生活のなかで希望と現在を語りつづけた異能の思索者、エルンスト・ブロッホ(1885 - 1977)。ナチス活動期ドイツでのユダヤ人という、これ以上ない苦難苦境の中にありながら、軽さを決して失うことのない文章の数々は、書かれた内容とも相俟って、まさに時代風潮を「異化」しつづけていたのだと思う。思想的に「独特」あるいは「異端的」と各種正統派路線上の主流派たちによる圧力を常に受けながら、その圧力を受け流し、敵と対しては逃げ撃ち、追い込んでくるものに対してはトラップを仕掛けるなど、知的フィールドでのブロッホの遊撃のセンスは、二十世紀前半の時代の重たい空気にほとんど侵されることなく華麗さを極めている。同時代の盟友たち(たとえば、ベンヤミンジンメルルカーチアドルノ)などよりも、生活においても文章においても、状況が強いる抑圧や重力に対しての振舞いや・あしらい・諦念などの合わせ具合がとても軽やかで、嫌みや臭みや無理や痛みがいちばん少ないようなタイプの思想になっているような感じを受ける。生き延び、世界を変えていくための切っ掛けと支点を、自身が移動しながら生きた先々に落とし込んで成長を待っていっているような長期的な展望も常に失わない思索家としての人生。土地を持たずに移動する先々に苗木を植えていくことで各土地土地の風景も未来もいずれは変えてしまうという、ジャン・ジオノの『木を植えた男』的な人物。

 

ブロッホの『異化』。一部で主著と言われていることもあるが、どちらかというと長きにわたる文筆活動期間全般をカバーし、ブロッホの活動全般を短めの複数エッセイで再構成した、導入書(白水社版日本語訳は現在品切れ中)。誰にも異論が出ないであろう主著は『希望の原理』。二〇二一年現在、『希望の原理』は日本では白水社より全六巻取り寄せ購入可能となっている。いわく「希望の百科事典」。

 

ブロッホと同時代を生きた日本の美学者である中井正一は、日本全国千館くらいの規模感で図書館に良書を揃えたいという比較的現実可能な希望を掲げていた。それが実現しているなら、人口比から考えても東京都内であれば『希望の原理』は40セット以上なければいけないことになる。現実は半分以下といったところだろうか。良書の定義は人によって違うし、予算も限られているので希望は実現されていないが、希望は実現されていないからこそ、未来を変える力にもなってくる。

 

希望という方法(メトデイクム)は、<まだ=ない>の領域、すなわち、開始ととりわけ究極的内容の依然たる非決定性の領域、の中にあるのである。言葉をかえれば、失望させうるものに直接かかわっているということであり、だからこそ(エオ・イプソ)希望は、それ自身のうちに挫折という困難をかかえているのだ。希望は決して確信ではないのである。それどころか希望は、歴史過程と世界の過程の、まだ決して挫折してはいないがしかしまだ決して獲得されてもいない過程の、非決定性と密接しているのだ。希望は、現存するものをたんに潜在的に救済するもととしてだけでなく、危険として取りまいている客観的・実在的に可能的なものの場(トポス)にも満ちているのである。
(『異化』Ⅰヤヌスの諸像「希望は失望させられることがあるか」p203)

 

まだまだ希望の実現に向けての途上にあることをブロッホを読みつつ確認しながら進む。

エルンスト・ブロッホ - 白水社


【付箋箇所】
11, 35, 58, 61, 83, 153, 162, 63, 178, 202, 203, 205, 206,207, 208, 256, 268, 278, 373, 391, 393, 396, 397, 409,

 

目次:

異化Ⅰ ヤヌスの諸像 1962

 01 呼びさます
 02 耐えがたい瞬間
 03 眼前のボブスレー
 04 鏡なしの自画像
 05 大いなる瞬間、気づかれづに
 06 既視感(デジャ・ヴュ)のイメージ
 07 探偵小説の哲学的考察
 08 芸術家小説の哲学的考察
 09 疎外、異化
 10 ホフマン物語
 11 『魔笛』と今日の象徴, 1930
 12 ヴァーグナーにおける逆説とパストラーレ
 13 光による神話の破壊と救済
 14 技術者の不安, 1929
 15 技術と幽霊現象, 1935
 16 ヘーベル、ゴットヘルフ、ならびに農民の道(タオ), 1926
 17 希望は失望させられることがるか, 1961
 18 『三文オペラ』の海賊ジェニーの歌, 1929
 19 ポンセ・デ・レオン、ビミニ島、ならびに源泉
  [魔法のガラガラと人間竪琴]
  
異化Ⅱ ゲオグラフィカ 1964

 01 近道
 02 静かな田舎
 03 砂の中のサロン, 1933
 04 荒廃と小都市
 05 ルートヴィヒスハーフェン=マンハイム, 1928
 06 マンハイム、好意的な回想から, 1931
 07 風景から見たベルリン, 1932
 08 ヴォルムスの聖パウロ教会, 1933
 09 春の草原の歓び, 1933
 10 [フラテリーニ三兄弟、または]アルカディアの前舞台, 1933
 11 ライン瀑布での驚嘆, 1934
 12 ブロッケン山の発掘, 1928
 13 秋、沼、荒野、そして分離派, 1932
 14 十九世紀末以降の自然像について, 1927
 15 カワラバト、ネアンデルタール、本当の人間, 1929
 16 ネス湖、大海蛇、そしてダケーの原始世界の伝説, 1934
 17 アフリカのトレーダー・ホーン, 1932
 18 シュトラースブルクの大聖堂にて, 1928
 19 写真なしのアルプス, 1930
 20 マローヤからキアヴェンナへの漂流, 1934
 21 ヴェネツィア、そのイタリアの夜, 1934
 22 イタリアと多孔性, 1925
 23 シアグリウスの王国, 1930
 24 ユートピアの墓場と記念祭、地理的に。空と草原(ステップ), 1942
 25 ゲーテのスケッチ「理想の風景」
 26 大晦日と新年をめぐる風景
 27 低速度撮影、高速度撮影、および空間


エルンスト・ブロッホ
1885 - 1977
船戸満之
1935 -
守山晃
1938 - 1991
藤川芳朗
1944 -
宗宮好和
1945 -

 

川村二郎、小笠原豊樹 編『世界詩人全集 22 現代詩集Ⅲ ドイツ・ソヴェト』(新潮社 1969)20世紀前半の動乱の中で詠ったギリギリの詩

20世紀のドイツとソヴィエトの詩人のアンソロジー。ドイツは第一次世界大戦ナチスに、ソヴィエトはロシア革命によって人生を翻弄された時代の詩人たちとなる。ドイツの詩が観念的で精神世界が描出されるような傾向があるのに対し、ソヴィエトの詩は大地や身体がにおい立つような生々しい表現に向かう傾向があるようだ。

本詩集では、トラークルとツェラーンは詩的言語が醸し出す禍々しさがとびぬけていて別格な印象を受けるが、ほかの詩人たちもそれぞれ特徴があって訳詩であっても読ませる。同シリーズの『世界詩人全集 20 現代詩集I フランス』のように一国ずつ分冊可能であればもっと凝縮度が出て大変ありがたいものに成っていたと思うが、今よりも読者がいたであろう時代にあっても商品として考えた場合は、そう簡単に編集出版していいわけのものでもなかったのだろう。

つい先日読んだエルンスト・ブロッホの希望に関する文章の影響もあって、エンツェンスベルガー(1929 - )の「シシュポスへの忠告」は特に印象に残ったもののうちのひとつ。後半部分はこうなる。

黙っていたまえ 石がころがって行くあいだ
太陽と一言をかわすのはよいが
自分の無力に思いあがるな
その代り 世界の怒りを増加せよ
百ポンド または一グラン
見こみもなしに黙々とはたらき
草のように希望を引きむしり
鳴りわたる哄笑を 未来を
怒りを山上へ押し上げる男
世界はこの男たちの乏しきにたえない
(エンツェンスベルガー「シシュポスへの忠告」部分 川村二郎訳 p146 )

自身の希望を引きむしった後になお故しらず噴出する哄笑、未来、怒りがバージョンアップされた希望、遍満してゆく希望の空気なのかもしれないと思った。複数のひとびとの乏しさが世界の自壊変容を強いるのだろう。

ちなみにエンツェンスベルガーは『数の悪魔 算数・数学が楽しくなる12夜』などの散文を書いている作家でもある。児童向け散文作品がいちばん身近になっているが、1971年時点で全詩集も日本語訳されている模様。

 

収録詩人:

【ドイツ】
ゲオルク・トラークル 訳:高本研一
ベルトルト・ブレヒト 訳:長谷川四郎
ゴットフリート・ベン 訳:富士川英郎
オスカー・レルケ 訳:神品芳夫
ペーター・フーヘル 訳:井上正蔵
ネリー・ザックス 訳:生野幸吉
インゲボルク・バッハマン 訳:生野幸吉
ヨハネス・ボブロウスキ 訳:長谷川四郎
パラル・ツェラーン 訳:飯吉光夫
ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー 訳:川村二郎

【ソヴェト】
アレクサンドル・ブローク 訳:水野忠夫
セルゲイ・エセーニン 訳:樹下節
ボリス・パステルナーク 訳:江川卓
エヴゲニー・エフトゥシェンコ 訳:草鹿外吉
アンドレイ・ヴォズネセンスキー 訳:小笠原豊樹
ベラ・アフマドゥーリナ 訳:安井侑子
ブラート・オクジャワ 訳:小笠原豊樹


川村二郎
1928 - 2008
小笠原豊樹岩田宏
1932 - 2014

岩波日本古典文学大系89『五山文學集 江戸漢詩集』(岩波書店 1966 山岸徳平校注)から江戸の漢詩を読む

藤原惺窩から良寛まで江戸の漢詩人77名を集めている。鎌倉室町期の五山文学に比べて使用される語彙が多くなっていることもあり詩興のバリエーションは増えている感じはするが、閑寂を理想美としていることもあってか、生活に関わるような事物が出てくることは少なく、かわりに心象風景にかなった風物が詠われることが多いためひたすら淡い、ものの少ない世界に居るような気分にさせる詩集となっている。商品経済は今より格段に発達していなかった江戸の時代であっても、芝居も浮世絵もこまごまとした日用品なども出てきていない。良寛に関しては遺稿集や各種評伝など少なからず読んでいるため、もっと具体物の登場する、感情も生々しい作品があることも知っているのだが、この集に関しては、普段あまり採られることのないあっさりした作品が選ばれているようだ。全般的に玄人好みの選択となっているのかもしれない。

そんなことを思いながら目に止まった作品をひとつご紹介。

那波活所(なはかっしょ 1595-1648)

巖城結松

別離雖惜事皆空
綰柳結松情自同
馬上哦詩猶弔古
寥寥一樹立秋

巖城(いはしろ)の結び松を

別離は 惜むと雖(いへど)も 事 皆 空しく
綰柳(わんりゅう)も 結び松も 情は 自(おのづか)ら同じ
馬上に 詩を哦(が)しつつ 猶(なほ) 古(いにしへ)を弔したれば
寥寥(りょうりょう)たる一樹は 秋風に 立てり


寂しそうに立つ一本の松の木が心象と重ね合わせられて詠われているのが悲しくも美しいと感じる一品。

寥寥一樹立秋

こちらは読み下し文でもなく横書きでもなく、縦書きの配置のまま眺めるのが漢文の詩句としてはふさわしい見方なのだろうなと思った。

  寥
  寥
  一
  樹
  立
  秋
  風
  
漢字だからといってすべてが象形文字ではないだろうが、文字の配置によって見えてくる景色がちがうのもまた鑑賞者側にとっては動かしようのない事実だ。縦書き七言に風の中に立つ樹のイメージが被る。

 

山岸徳平
1893 - 1987