マルセル・モース「文明 要素と形態」(1930)

身体的な欲求も社会的な欲望も他なるものを取り込みながら同化変容していく。活動領域や交換法則は整備されながら拡大していく。同質化の動きは避けられない。

確実なのは以下のことどもです。現在までの未曽有の相互浸透がもはや定着していること。個々の国民であれ個々の文明であれ、たとえそれらが存続するにしても、それらが共通とする特徴の数は増加してゆくであろうこと。一つひとつの国民なり文明なりの形態は、それ以外の国民や文明の形態とどんどん似たものとなってゆくであろうこと。それというのも、共通の基盤がつねに数を増し、重みを増し、質を向上させているからです。加速的な発展をもって、つねに拡大し続けているからです。(森山工編訳 岩波文庫版『国民論』p283)

いままさに加速度を増して拡大中。

過渡期であっても、できることなら質の向上がもっと実感できるような状況であって欲しい。

 

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マルセル・モース
1872 - 1950
森山工
1961 -

 

マルセル・モース「ボリシェヴィズムの社会学的評価」(1924)

『贈与論』のマルセル・モースのもう一つの顔は社会主義の思想家。設立間もないソヴィエトを批判しながら展開されるモースの社会主義の思想は、彼にとっての希望の原理。

結論を述べよう。ロシアであろうとこちら(引用者注:「わたしたちの西欧諸社会」)であろうと、社会主義>によってありとあらゆる所有形態が廃止され、ただ一つの所有形態がそれに取って代わるなどということはあってはならないことである。そうではなく、<社会主義>は、そのただ一つの所有形態のほかの所有形態にも一定数の権利を付与するのでなくてはならない。職業集団の権利や、地域集団の権利や、国民の権利などがそれである。もちろん、新たに導入される諸権利と相矛盾するような権利は、権利システムに反作用をもたらさずにはおかないだろう。なぜなら当然のことながら、たとえば永代相続権であるとか、あるいは地価の上昇分に対する個人の権利であるとかは、社会主義とは(それがいかなる社会主義であろうとも)両立しえないからである。こうした付与も廃止も、ソヴィエトが真になしとげたことであって、それは疑いもなくソヴィエトの業績の堅固な部分をなしている。ソヴィエトがそこにとどまっていてくれたらよかったのに!
したがって、ラッサール(プロイセン政治学者・社会主義者・労働運動指導者)に着想を得てエマニュエル・レヴィ(モースと同時代のフランスの法学者・社会主義者)が提示した説得的な表現によるならば、「<社会主義>とは既得権なき<資本主義>なのである」。(森山工編訳 岩波文庫版『国民論』p32-33 太字は実際は傍点)

「既得権なき<資本主義>」というのは自由主義側のハイエクが考えていたことにも近いのではないかと思ったりする。モースにせよハイエクにせよ理論的な面でも生涯をかけて探求し続けなければならなかったような、ハードルが高く領野の広い希望の原理の姿なのだろう。

 

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マルセル・モース
1872 - 1950
森山工
1961 -

ピエール=ジョゼフ・プルードン『貧困の哲学』(1846) 平凡社ライブラリー下巻(2014)

アナーキストプルードンが国家や企業に代わる組織として掲げたのが、アソシエーション(協同組合)。しかし現実の世界ではアソシエーションは必ず企業や国家に敗れる。競争力も権力ももっていないから。しかし、だからといってその理念をなくしてしまうと、対抗案も緩衝材も改善のための足場もなくなってしまう。何事かあった時にも、自由と寛容の砦となるため、アソシエーションを統制的理念、希望の原理として評価する。プルードン再評価に貢献の大きい『トランスクリティーク』以降の柄谷行人が立っているのもそういった立場だ。

 

第九章 第六段階―貿易のバランス

一言でいえば、貧乏人をつくりだすひとびとだけが得をする。こうした特権階級はつねにそこそこ数がいて、もっとも肥沃な土地が農民にもたらす超過分、もっとも豊かな鉱山が掘り手にもたらす超過分、最も生産的な経営が産業者にもたらす超過分をむさぼり食う。自分たちに何ほどかの収入をもたらすことがなければ、劣等な土地や劣等な経営に労働者が手を出すことを許すははずがない。こうした独占どうしが結託したシステム、それが交易の自由と呼ばれるものなのだが、このシステムにおいては、生産手段の所有者は労働者にむかって、こう語っているように思われる。すなわち、お前の労働が私に何ほどかの超過分をもたらしてくれるかぎり、おまえは働いてよい。しかし、それより先に行ってはならない。(p73)

 

第一〇章 第七段階―信用

貨幣は、その他のあらゆる生産物を評価し、支配し、従属させる。貨幣のみがわれわれの負債を解消し、われわれを義務から解放する。貨幣は、国民にとっても豊かさと独立を保証する。けっきょくのところ、貨幣とは権力であるばかりでなく、自由・平等・所有であり、すべてなのである。(p147)

 

第一一章 第八段階―所有

分業によって、平等が実現しはじめる。この平等は、多数のものの同一性ではなく、多様なものの等価性としてあらわれる。社会の組織は原理によって構成されるが、その芽生えはそれを活気づける刺激を受け取ったところにある。集合的な人間が存在するにいたる。しかし、分業は一般的な役目と特殊な役目をともに前提する。このことから労働者たちのあいだに条件の不平等が生じ、一部のひとびとを上昇させ、ほかのひとびとを下降させる。こうして第一段階から、原始的な共同体にかわって産業的な敵対関係があらわれる。(p288)

 

第一二章 第九段階―共有

さて、文学と科学の教育はまだ専門的になるとしても、青少年をみんな進取の気性と発見の能力をそなえた独創的な人間にしようという偏りがあると、ひとびとがますます共産主義の原理から遠ざかっていくことは明白だ。そして、友愛で結びついた労働者たちはいなくなり、最終的には野心的で制御しがたい性格の人間たちしかいなくなることも明白だ。この恐ろしい問題について共産主義の思想家たちの深い考えを聞きたい。(p400)

 

第一三章 第一〇段階―人口

機械は、労働者を細かい分業による愚鈍化から救い出してくれるはずであったが、逆に労働者を一段と深刻な状態へ追いこむ。労働者は人間らしさとともに自由を失い、たんなる道具のレベルに堕落させられる。幸せは主人にとって増大し、下っ端にとっては不幸が増大する。カーストの区別ができあがり、恐ろしいひとつの傾向が鮮明となる。すなわち、人間の数を増やしながら、人間がいなくてもやっていけるようにしたいという傾向である。こうして全体の苦しみがさらにつのる。貧困はすでに分業によって予告されていたが、ここにいたって公式に世界全体におよぶ。このときから貧困が社会の神髄となり神経となる。(p494)

 

第一四章 要約と結論

科学の出発の時点で、労働は、方法ももたず、価値についての知識もなく、わずかに覚えた片言を言うだけで、富の作りかたやものの価格の決めかたはいわゆる自由意思にまかせた。この瞬間から、二つの勢力が相争うようになり、社会の組織化という大事業が始まった。なぜなら、労働と自由意志を、我々はのちにこう呼ぶことになるからだ。すなわち、労働と資本、賃労働者と特権階級、競争と独占、共有と所有、平民と貴族、身分と市民、協同(アソシアシオン)と個人主義、である。論理学の基本概念を承知しているひとなら誰にでも明らかなように、こうした対立は永遠に再生されるものであるから、永遠に解決し続けねばならない。(p598)

 

「永遠に解決し続けねばならない」。固定せず考え続け、失望せずトライしなければならない。何もしないと精神が決めていても、腹が減ったりトイレに立ったりで動き出してしまう身体のように、世界に働きかけてしまう人間というものを観察し、できれば気持ちよくコントロールしていく。まずは自分の身のまわりのことからスタートする。

 

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ピエール=ジョゼフ・プルードン
1809 - 1865
斉藤悦則
1947

ピエール=ジョゼフ・プルードン『貧困の哲学』(1846) 平凡社ライブラリー上巻(2014)

1809年生まれのプルードンは、島津斉彬、E・A・ポー、ゴーゴリリンカーンダーウィンと同い年。37歳の時に書かれた『貧困の哲学』は、174年前の著作であるにもかかわらず、訳業が最近のものということも手伝って、今読んでも古さを感じさせない。今新たに出版される政治経済系の新書本などより、はるかに都会的、コスモポリタン的な雰囲気をもっている。マルクスに批判されて後、あまりいい扱いを受けることもなかった著作だが、常時・非常事にかかわらず国家・行政以外の共用サービスの組織形態を考えるきっかけにもなる歴史的に意味ある作品となっている。おそらく100年後の世界でより読まれているのは、トマ・ピケティなどよりもプルードンであるだろう。
 
全巻読むとなると平凡社ライブラリー版上下巻で千頁を軽く超える大冊なので、以下の章ごとの引用箇所を里道標的に利用していただくと少しは読みやすくなるかも知れない。

 

第一章 経済科学について

たとえば、利潤とは何か。それは費用をすべて支払ったのちに経営者の手に残ったものだという。しかし、費用とは労働の日当と消費された価値の和であるが、どちらもつまりは賃金にほかならない。では、労働者の賃金はどのようにして決められるか。それはできるだけ低くすることだと言う。すなわち、わからないということ。経営者が市場にもちこむ商品の価格はいくらであるべきか。それはできるだけ高く、だ。これもまた、わからないと言うにひとしい。政治経済学的においては、商品や労働日を評価することはできても、価格を確定することはできないとされる。経済学者によれば、ものの理屈から言っても、評価は本質的に主観的なものであり、けっして絶対確実な結論に達しえない。(p82-83)

 

第二章 価値について

もし、私の生活に役立つものすべてが太陽の光のようにありあまっていれば、べつの言いかたをすると、あらゆる種類の価値が無尽蔵にたくさんあるならば、豊かな暮らしは確実に保証される。私は働く必要もない。ものを考える必要もない。このような状態においては、ものに有用性があることには変りがなくても、ものに価値があるとはもはや言えなくなる。なぜなら、あとでも述べるが、価値とは本質的に社会的な関係を示すものあからである。有用性の観念が生じるのも、まさにわれわれが交換をおこない、いわば自然界から社会に復帰したそのとき以外にない。(p96)

 

第三章 経済発展の第一段階―分業

教育が普及すれば、ひとは自尊心が増した分だけ貧困がつらくなる。なんと悲惨なことだろう。(p187)

 

第四章 第二段階―機械

機械が増えると人間にとっては働き口がなくなるだけではない。人間の数が少なくて消費の力が不十分であると、機械にとっては人間が足りないことになる。したがって、均衡が確立するまでは、働き口の不足と働き手の不足、生産の不足と販路の不足がまったく同時に存在するのである。(p248)

 

第五章 第三段階―競争

売買から気まぐれがなくなり、市場から不安がなくなれば、つぎつぎにあたらしいものをつくろうとする労働の意欲もなくなる。追い立てられるような気持ちがなくなれば、生産の驚異的な発展もありえなくなる。(p286)

 

第六章 第四段階―独占

慈善を平等の道具にしたり、均衡の法則にしたりすれば、それは社会を崩壊させる。ひとびとのあいだに平等をもたらすものは、厳密かつ柔軟な労働の法則であり、価値の比例性であり、交換の誠実さであり、しごとの重みのひとしさである。一言でいえば、あらゆる対立の数学的な解決である。(p337)

 

第七章 第五段階―警察あるいは税金

一言でいえば、政府に雇われているひとびとへの賃金は、社会にとってはロスである。それは損失として計算されなければならない。産業の組織であれば、そういう損失はたえず少なくしていくことがめざされるはずだ。こうしてみると、アダム・スミスが用いた「不生産性」ということばは、まさに権力者を形容するときに一番ぴったりくる。
このように、具体的な生産物をもたらさないので、通常の形で報酬を支払うことができないカテゴリーのサービスがある。そういうサービスは、交換の法則になじまず、個人的な投機や競争や共同出資など、いかなる種類の商業活動の対象にもなりえない。また、そういうサービスは、理論的には特段の条件もなしに社会の誰にでも開かれているものだが、じっさいには分業の法則のおかげで、少数の特別の人々にのみ排他的にゆだねられている。(p385)

 

第八章 矛盾の法則のもとでの人間の責任と神の責任―神の摂理の問題の解決

エゴイズムの法則のもとで生きているかぎり、人間は自分で罪を背負う。人間が社会の法則という概念にまで自分を高めていると、人間は社会に罪があるとする。つまり、個として、および類として、人間はつねに人間に罪があるとするわけだ。そして、今日までにこの二重の責めからきわめて明瞭に引き出しうることは、じつはまだまったく指摘されたことのない事実であるが、それは宗教が後悔を神にも人間にも共通する奇妙な能力として認めていることである。(p486)

 

下巻につづく・・・

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ピエール=ジョゼフ・プルードン
1809 - 1865
斉藤悦則
1947

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド「象徴作用」(1927)その3

象徴作用によって存在しているものは実際には存在していないがゆえに誤謬と仲が良い。けれども存在していないからといってすべてを取り払うことも出来ない。事物に働きかける外的な強制力もある。

象徴作用と直接的知識とのあいだには、一つの大きい相違がある。直接的経験は誤謬を犯しえないのであって、諸君の経験したことは経験したに違いはない。しかし象徴作用は非常に誤りを犯しやすいのであり、ということの意味は、象徴作用がわれわれに想定せしめる事物が、実際にはこの世界に存在していないにもかかわらず、たんなる観念に過ぎないその事物に関して、象徴がさまざまな行動や感情、情緒、信念などを惹起しうるということである。直接的知識の結果としてわれわれが機能するやり方には、象徴作用が不可欠の因子として介在する、という主張をわたしはこれから展開しようと思う。高度に発達した有機体が可能となるのは、それの象徴的諸機能が、重要な問題に関する限りたいていは正当なものである、という条件が満たされる場合だけである。しかし人類が犯すさまざまな誤まちも、同じように象徴作用に派生している。それで人間性というものが依存している諸象徴を、理解しまた純化するということが、理性の遂行すべき任務となる。(『象徴作用』p16-17)

象徴作用は非常に誤りを犯しやすいが、それなしに人間の活動はない。言語、数、貨幣、国家、社会、組織、家族・・・。

 

目次:
象徴作用―その意味と機能
序文
第1章
 1 象徴作用のさまざま
 2 象徴作用と知覚
 3 方法論について
 4 象徴作用が誤謬を犯しうる
 5 象徴作用の定義
 6 活動としての経験
 7 言語
 8 提示的直接性
 9 知覚的経験
 10 知覚的経験における象徴的関連づけ
 11 心的なものと物理的なもの
 12 提示的直接性における感覚所与と空間との役割
 13 客体化
第2章
 1 因果的能動性に関するヒュームの見解
 2 カントと因果的能動性
 3 因果的能動性の直接的な知覚
 4 因果的能動性の原始性
 5 知覚の諸様態の交叉
 6 位置限定
 7 厳密な明確性と重要性との対照
 8 結論
第3章
 象徴作用のさまざまな有用性

 

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ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
市井三郎
1922 - 1989

ホラーティウス『書簡詩』(2017 講談社学術文庫)

『書簡詩』全二巻、文庫版として初の全訳(第1巻全20歌、第2巻全3歌)。ネット上での訳の評判は上々。電子版もあるようなので読めなくなるということはないだろうが、紙の本が好みの方は手に入れられるうちに購入しておいたほうがよいかと思われる。

伝統的に『詩論(Ars poetica)』と呼ばれる第2巻第3歌「ピーソー家の人々宛」は全詩の中でも別格の面白さがある。二〇〇〇年たっても詩の本質はなんら変わらないためなのだろう。

それでも、人の事績は滅び去るもの。
まして、言葉の誉れや流行がいつまでも生き続けることはない。
すでに廃れた言葉の多くが再生するだろうし、いつか廃れるはずだ、
いまもてはやされている言葉も。それは世の慣いのままであり、
言葉を使う裁量と法と規範はそこに委ねられている。
(第2巻第3歌「ピーソー家の人々宛」68-72行)

第2巻第2歌「フロールス宛」の手紙の中のホラティウスの自分語りも、読書する人間に訴えるものが大きい。

勉学に七年を費やし、重ねる齢を
本への愛着に捧げたのに、結局、立像よりも無口になったことも
よくあります。それを人々は腹を揺すって笑います。でも、ここでしょうか。
この世間の荒波、都の嵐のただなかでしょうか、
私が竪琴の響きに和した言葉を紡ぐのにふさわしいのは。
(第2巻第2歌「フロールス宛」82-86行)


ホラティウス、書を愛する二〇〇〇年前の同時代人。コンテンツとして接触できる状態にあれば、いくらでも変異体が増殖する可能性は秘めている。

 

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クイントゥス・ホラーティウス・フラックス
B.C.65 - B.C.8
高橋宏幸
1956 -

 

はてなブログのsitemap.xml内のサイトマップのURLパターンが変更された?

Google Search Consoleを利用させてもらっているのだが、3/20の記事からクローラが拾ってくれなくなっていた。
なんか変だと思って、今日sitemap.xmlの中身を見てみたら、サイトマップのURLパターンが変更されているようだった。

【従来パターン】
https://xxxxxxxxx.hatenablog.com/sitemap.xml?page=1

【本日確認パターン】
https://xxxxxxxxx.hatenablog.com/sitemap_periodical.xml?year=2020&month=3

 

昼に登録し直したところ、さきほどクローラが拾ってくれたのを確認できた。

同じような現象にあっている方は確認してみてください。