読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャン=フランソワ・リオタール『崇高の分析論 カント『判断力批判』についての講義録』(原著 2015 , 訳:星野太 法政大学出版局 2020)

カント『判断力批判』の第23節から29節までの崇高の分析論を中心に、美と崇高、理性と悟性と構想力と判断力について論じたリオタール晩年の講義録。『純粋理性批判』『実践理性批判』との関係性に目を配りながら、それぞれの批判書のアンチノミー(二律背反)、とりわけ第三批判の趣味のアンチノミー(議論不可能/議論可能)について考察し、思考の根源性と終わりのなさについて説いている。
カントの著作とともにゆっくり読まれることを期待しているような書物。複数回読むことで理解がより進んでいくと期待できる。

 

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【目次】
第1章 美感的反省
第2章 崇高と趣味の比較
第3章 崇高のカテゴリー的検証
第4章 数学的総合としての崇高
第5章 力学的総合としての崇高
第6章 異質性の複数のしるし
第7章 美と崇高における美感的なものと倫理的なもの
第8章 趣味の伝達
第9章 崇高な感情の伝達

【付箋箇所】
14, 26, 32, 38, 51, 62, 66, 85, 88, 96, 97, 100, 103, 110, 130, 140, 144, 156, 168, 174, 175, 199, 218, 235, 240, 249, 253, 293, 302, 310, 323, 334

ジャン=フランソワ・リオタール
1924 - 1998

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イマヌエル・カント
1724 - 1804

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星野太
1983 - 

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佐藤優『哲学入門 淡野安太郎『哲学思想史』をテキストとして』(角川書店 2022)

神学者である佐藤優の哲学に向ける視線はいたってドライだ。一般教養を求めて本書を手に取ると、世俗の厳しさを神学的立場から知らないうちに考えさせられることになる。

本書籍が一般購買層に対して優しくない書物となっているのは、本書が神学を専門としようとしている同志社大学神学部・同大学院神学研究科の学生との四泊五日の合宿の講義記録であるためで、神学外部の者への配慮を優先させているためではないところを知っておくべきであると考える。

本書の副題に「淡野安太郎『哲学思想史』をテキストとして」とあるが、淡野安太郎『哲学思想史』の読み解きに現れる不足分について、神学者マクグラス編集の『キリスト教神学資料集』を頻繁に参照し解説を施しているところから、複合的な視点を要請する著者佐藤優の独自の世界観を伝えようとする著作となっている。

基本的にプロテスタンティズムの神学エリートに対する講義なので、そこから外れる一般的な人物にとっては、説かれていることを読んで受容するには厳しい判断を迫られる。プロテスタントの神学からの視線に個々の読者の存在が耐えられるかどうかが問われているところがあると思う。

努力では超えられない個体差と個体差の背景としての家系、そして神による選別。

神に選ばれていない、どう考えてみても一般的能力に及ばない人がどうすべきかというところを、本書から読み取るのは難しいところがある。

容易に希望を抱かせない誠実な書物ではあろうが、かなり読む人を選んでいる著作である。読み通した際に痛みが残ることも覚悟しておいたほうがよい。

 

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【目次】
まえがき――先哲と共に考える学知は役に立つ
一日目
 第一章 哲学とは何かーー「緒言」と序章を読む
 第二章 古代哲学の世界――第一章第一節、第二節を読む
二日目
 第三章 現代につながる古代――第一章第三節、第四節 を読む 
 第四章 思想における中世的世界――第二章第五~第七節を読む
 第五章 近代文化の開花――第三章第八節~第九節を読む
三日目
 第六章 経験論の世界――第三章第十節を読む
 第七章 啓蒙主義の克服――第三章第十一節を読む
 第八章 弁証法的思考と新カント学派――第三章第十二節を読む
四日目
 第九章 唯物論と現代哲学――第三章第十三節、補章、むずびを読む 
あとがき――「正しい戦争」を支持しないために
参考文献一覧


【付箋箇所】
3, 4, 5, 21, 30, 36,46, 51, 53, 54, 69, 89, 94, 101, 120, 124, 135, 148, 159, 184, 196, 200, 201, 225, 232, 236, 245, 251, 274, 276, 284, 288, 291, 292, 297, 304, 306, 308, 320, 324, 328, 334, 339,  340, 344, 348, 364, 375, 378, 379, 381, 385, 391, 396, 403, 420, 429, 434

淡野安太郎
1902 - 1967

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佐藤優
1960 - 

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アリスターマクグラス
1953 -

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淡野安太郎『哲学思想史 -問題の展開を中心として-』(角川ソフィア文庫 2022, 原著 1949, 1962)

後進の教育にもっとも力を入れている人物のひとりである作家佐藤優が再刊までこぎつけた哲学史概説書。

古代哲学から近代哲学に移行するあいだの中世(キリスト教)哲学を教科書的哲学通史のなかでまがりなりにも取り上げ位置づけたこと、現代日本の高等教育の基本形を作った新カント派の考えが丁寧に説かれていること、一元論と二元論の弁証法的な思索の運動が哲学史を創り上げていることを人間に信頼を置くヒューマニズムの立場から説いているところが本書の特徴と言えるであろう。

日本の西洋哲学受容の厚みを振り返り確認できる書物。

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【目次】
緒 言 全面的に書き改めるに際して
序 章 哲学と哲学史

第一章 古代哲学
 第一節 ギリシャにおける学問の誕生とその発展
 第二節 二元論と一元論
 第三節 古代の唯物論
 第四節 自由の問題

第二章 中世哲学
 第五節 キリスト教思想
 第六節 中世思想の根本問題
 第七節 普遍者論争

第三章 近世哲学
 第八節 近代文化の誕生
 第九節 唯理論
 第十節 経験論
 第十一節 批判主義の根本精神
 第十二節 弁証法的思惟
 第十三節 唯物論とその超克

補 章 現代哲学の動向
解 説 佐藤優

【付箋箇所】
25, 28, 35, 36, 40, 45, 54, 57, 72, 98, 106, 119, 122, 158, 168, 170, 173, 192, 189, 202, 210, 215, 236, 245, 250, 2259, 279, 292, 294, 309, 310, 312

淡野安太郎
1902 - 1967

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佐藤優
1960 - 

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ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌの寓話』(訳:窪田般彌, 沖積舎 2006)

ラ・フォンテーヌの寓話239篇からドレの挿絵のある86篇を選んで訳出した一冊。同じくドレ挿絵のラ・フォンテーヌの寓話の現代版訳書、谷口江里也翻案・解説の現代版『ラ・フォンテーヌの寓話 ドレの寓話集』もあるが、窪田般彌の訳書は17世紀の原文をもとにしたもので、現代的な感覚からすれば、ちょっと残酷で無慈悲。救いようのない場合もあるし、可能性がないことはないというだけのケース提示の話もあって、けっこう無責任ではあるが、その分リアリティがあるのも確か。時として最低限腑に落ちるような理路をたどっていない話で終わっているところが逆に教訓的に響く。常には正しくないような教訓もあるというところが心をちょっとざわつかせて、記憶しておくようはたらかせているようだ。

ドレがラ・フォンテーヌの寓話に挿絵を描いたのは1867年、35歳の時。すでに『神曲』や『聖書』などの大作を発表して人気作家となった後の作品集であるが、訳者窪田般彌の見立てでは、ドレ最良の作品からは外れる仕事とされている。

確かに細部にいたるまでの緻密さには欠けるシリーズではあるが、逆に作家の創作における緩急、筆触、基本的技量などがよく感じ取れる仕事で、息詰まることなく眺めていられるのが素晴らしい。画家の仕事の現場に心を開いて受け入れてもらえたような気安さと、心地よさを残す程度に抑えられた技巧のふくよかさ柔らかさがある。

ラ・フォンテーヌの寓話の教訓は効くかどうかわからないし、ドレの絵も強烈な印象で記憶に残るようなものではないとは思うのだが、時々ふりかえってみるのもいいように感じる一冊ではある。

時代を超えた古典の力であるのだろう。


ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ
1621 - 1695

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ギュスターヴ・ドレ
1832 - 1883

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窪田般彌
1926 - 2003

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谷口江里也『ギュスターヴ・ドレとの対話』(未知谷 2022)

スペイン文化に造詣が深く現代日本語圏におけるギュスターヴ・ドレの伝道者ともいえる谷口江里也によるギュスターヴ・ドレへの手紙形式の散文頌歌。ドレが五歳の時に描いた『ラ・フォンテーヌの寓話』のなかの「アリとキリギリス(セミ)」の最初期の絵からはじまり、51歳で亡くなるまでに物した膨大且つ繊細な業績の数々を、基本的には年代を追いながら跡づけていく、愛にあふれる書物。

142点の鮮明なドレの木口木版画の図版とともに写真などの新しい複製技術が発達しながら大衆消費社会が爆発的に広がっていった時代の寵児たる芸術家の姿を描きだしているところは注目に値する。


描きすぎて場面を構成する人物や取るにたらない事物までもがそれぞれ鮮明すぎるため、画面を構成するヒエラルキーがぼやけてしまって物語のバランスが崩れてしまっているといるということは否めない。整いすぎているがために生じている、劇的構成が望まれる場面でのアンバランスを感じる。主題と背景とのメリハリ、コントラストが弱いために、絵の焦点が複数化されたうえに相殺されてしまい、絵の主題が平板化されてしまっている。部分的に近づいて見れば個々に最高度の表現であるにも関わらず、総体的に見ると表現のエネルギーが分散され、互いに減算するように力がはたらいてしまっているところに一枚の絵としての弱さがある。

ただそれは、ドレによって表現された世界を、版木もしくは刷られた版画によって、外側から鑑賞した時に生じる感覚で、外側から鑑賞していた自分自身が、版画の世界内に飛び込んで、どこかの地点からその世界を見たと仮定すると、たちまち世界はリアルなものとなり、自分自身も彫刻刀によって創り出された描線と陰影のみからなる存在、それでいてその世界での十全な存在であると感じるようになる不思議さをも持っている。

ドレが描くことでより可視化され現実化した世界は、多くの人間にとって受け入れやすく整えられたものではあったが、人並外れた優れた技巧によって生み出された整いすぎた表現は、見る者にどこかしら疎遠なところを残さずにはいない。あまりにも正確、あまりにも克明、あまりにも理知的であるがゆえに、救いようがなく、容易な希望や解決策を認めない画だ。

技巧的に最善最高で、描かれた対象としても最も現実的で最も情動的な作品に部類する『ロンドン巡礼』は、カール・マルクスが『資本論』を執筆した時代の世界最先端の資本主義都市ロンドンの闇の部分を記録した稀有な仕事ではあるが、やはりどこかしら冷たいというか、描写優位の冷徹さ、資料的価値観優位の素っ気なさがある。リアルであるがその場面を見ている人の視線は超越的で容赦がなく、未来への救いが見えず、現状をただ認識するほかはない。ただ、目を背けず、事態から逃げずに、あるがままのところからはじめるしかないということが静かに(やるせなさと憤りとともに)伝えられている。

うますぎる技術は、時に制作者の思いを超えて技巧の側に目を向けさせてしまいがちではあるが、リアリティを積み重ねた表現が現時点で持っている均衡状態の次に現われて要請されるであろう事態を予感しつつ対峙することが、ドレを鑑賞する場合には必要であるようにも思う。

前景と背景と主題が同じ粒度、同じ精度で描かれていると、絵画のみに対峙する場合に鑑賞者としては戸惑う場合が多い。ドレの作品の多くは古典や聖典の挿絵として創られたもので、本文とともに鑑賞する場合にはおそらく需要者の感覚を乱すようにはたらくことはほとんどないと思われる。画面に描かれた細部が過剰となり、非現実の疎隔感が生じてくるのは、絵の物質感・現実感がテクスト以上のものを語りの遠近法を超えて明瞭に示すようになってしまっているためであるようだ。描き手の描線の個性的なタッチが残るような素描的な作品にくらべれば、抑制のきいた均一の描線で構成された作品は、感情の世界を超越した理知的な世界判断を要請する世界を構成している。文章がある場合には文章優位で、独立した描画世界としては鑑賞しないでいる挿絵も、挿絵作家の作品として単独で鑑賞する場合には、描かれた場面の主題以上のものが見つづけていく分だけ見えてしまってくる。よりよく描かれている作品であればあるだけテクスト本文とは直接的には関係を持たない余計な画像が見えてくる。

基本的には一般読者を超えるテキスト解釈とテキスト補完を挿画家が行って(作者存命の場合には許諾を得てテキストとともに掲載して)いることなので、読者は著者創作活動の批評の一環として受け止めればよい。挿絵としての評価の場合はテキストとの兼ね合いで行えばよく、挿絵をテキストと分離して単独作品として見る場合には、創作経緯のもとに表現の質を判断すればよい。

違いが分からなければとりあえず比較あるのみ。

美しすぎて非現実的な疎隔感のあるドレのいくつかの作品に共通しているのは、(主観的なものを含めて)遠近法を無視した常に明瞭な世界を描きだしているケースに当たっているような印象がある。画面全体に焦点が合うはずはなく、どこか朦朧な部分はあるはずだ。細部まで克明に描かれている場合も、細部にどれほどリアリティがあり破綻なしに画面が構成されていても、全体的な印象としては親密さに欠けてしまうことが多い。

精緻さと親密さ、外観の写実性とリアリティ。超絶技巧をもって世を渡った人の両傾向の作品が、創作物に対する人の受容と応答のいくつかのパターンを教えてくれているようで、興味は尽きない。テキストと挿絵との関係性の最良の釣り合いについても提供されている多くのケースから色々考えさせられる。

また、ドレが残した作品の現代における最良の享受方法についても本書はサンプルを提供していて、ドレの『神曲』の版画をロックのライブで大画面にテキストと混合して投影したときの興奮を紹介していたりもする。私の印象では、ドレの版画は枠を強調して画面に注視を促すことで情動への効果を高める外傷性的な作品であるよりも、描かれたものの枠を忘却し、描かれたものの内側に没入することで異世界感を我が事とすることによって影響するような感染性のある作品であるような印象を持っている。いま実現可能なテクノロジーではVRに親和性のある世界であるように思う。今現在の標準的な感官・感性に負けない表出の質と量を持った19世紀人の創作がひとまとまりあるということは、知っておいても無駄にはならないとも思う。

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【目次】
第1話 ドレが描いた最初の絵
第2話 アリとキリギリス
第3話 才能と表現力の告知
第4話 自ら切り拓いた道
第5話 幻想の共有
第6話 ドレの肖像写真
第7話 私が見た最初のドレの絵
第8話 美しい悪魔
第9話 ペローの昔話
第10話 風刺画
第11話 ドン・キホーテ
第12話 ロマン主義
第13話 クロックミテーヌ伝説
第14話 神曲 煉獄篇、天国篇
第15話 ドレ的な表現1 ライティング
第16話 ドレ的な表現2 群像
第17話 ドレ的な表現3 近景と遠景
第18話 ドレ的な表現4 墨色の効果
第19話 ドレ的な表現5 ペン画のような版画表現
第20話 ドレ的な表現6 ハーフトーン
第21話 ドレ的な表現7 大空間
第22話 ロンドン
第23話 スペイン
第24話 ラブレー全集
第25話 老水夫行
第26話 1字軍の歴史
第27話 狂乱のオルランド
第28話 大鴉

【付箋箇所】
8, 10, 13, 14, 16, 21, 30, 35, 41, 42, 46, 52, 63, 65, 68, 70, 71, 77, 79, 81, 83, 90, 92, 96, 101, 107, 108, 116,118, 120,1, 131, 133, 136, 138, 143, 144, 147, 159, 161, 167, 175, 176, 178, 179, 180, 183, 189, 191, 206, 255, 236, 237, 238, 241, 242, 243, 248, 257, 266 
※著作本文よりもドレの絵をチェックしたケースのほうが多い

谷口江里也
1948 - 

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ギュスターヴ・ドレ
1832 - 1883

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松長有慶『訳注 般若心経秘鍵』(春秋社 2018)

空海晩年の円熟した著作として解釈を施している著作。

般若心経を五分割し仏教各派の教えに対応づけていることを図示している137頁と、各所で指摘されている呪文としての経文の優位傾向性を取り上げているところが特徴の書物。

論理よりも呪力による世界変革が優位にあるという思考に基づいている原著を確認するところの著作であるが、般若心経をその呪術的思考を成立たせるための厳密な論理的思考の基盤を説いている凝縮された経典であることを丁寧に跡づけている、現代的な理性に寄り添うような面を持ち合わせる書物である。

何ものをも排除せずに見るところが空であるという空観から、色即是空空即是色を説いているところだけでも見ておくべきところはある。

 

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【目次】
はしがき
第I部 著作解説
 一 宝の蔵を開く
 二 『般若心経秘鍵』の特色
 三 法より人
 四 密教の包容性
 五 『般若心経』とは
 六 『般若心経秘鍵』の著作
 七 『般若心経秘鍵』の構成
第II部 本文解説
 一 序
 二 正宗分『般若心経』の全体像
 三 『般若心経』の五分科
 四 行人得益分
 五 総帰持明分
 六 秘蔵真言
 七 問答形式の補説
 八 流通分
 九 上表文
付録 般若心経に聞く


【付箋箇所】
21, 31, 35, 49, 59, 67, 70, 125, 137, 143, 145, 187, 206, 付8, 25

空海
774 - 835

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松長有慶
1929 - 

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メーテルランク詩集『温室』(原著 1889, 訳:杉本秀太郎 雪華社 1985)

『青い鳥』(1907)の作者モーリス・メーテルリンク(1862-1949)の20代の処女詩集。

己の魂が温室のなまあたたかい環境のなかで倦怠感をもって過ごしていることを歌い、清冽な外部の侵入をロマンティックに請い願うという構えがベースとなっている抒情詩集。

著者27歳までの抒情詩は、甘さと苦さが本来的な状態で書き留められているがために、嫌みなく何度でも繰り返し読めるような、古びがたく、感覚の鮮度を保った詩篇である。

基本的には誰からも積極的には許されないであろう生ぬるさのうちに生きる人間の精神の姿を克明に描き上げたところに作者の特異性が感じ取れる。

慌てずに味わうべきノーベル賞受賞の象徴派詩人の処女詩集

温室33篇に15の歌を付加

[温室33篇]
温室
祈祷
倦怠の室
誘惑
ガラスの鐘
謎の捧物
心の葉叢
火照った魂

疲弊
疲れた狩猟
疲弊した猛獣達
お祈り
虚ろな時
倦怠
施療院
夜のお祈り
冬の欲望
倦怠の輪舞曲
アーメン
釣鐘型潜水器
アクアリウム
焦熱のガラスレンズ
反映
幻影
祈祷
眼差し
待ちぼうけ
午後è-
温室の魂
心づもり
触れ心地
真夜中の魂

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モーリス・メーテルリンク
1862 - 1949

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杉本秀太郎
1931 - 2015

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