読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

竹田青嗣『哲学とは何か』(NHKブックス 2020) 哲学教師としての竹田青嗣

西洋近代哲学の精華の図式的理解に大変有効な一冊。ただ、著者の本当の希望である社会変革(「自由な市民社会」の確立)の起点としての著作となるには、重みにかける。整理はうまいが、人生を動かしてしまうほどの思索の迫力に欠ける。言いたいことだけを言っているにすぎないお気楽感がどことなくだたようのが、本書でとりあげられる多くの思索者との決定的違いではないかと思う。評価される側(カント、ニーチェフッサールヴィトゲンシュタインホッブズ、ルソー、ヘーゲル)でも、批判される側(フーコードゥルーズデリダハイデガーロールズハイエク)でも、死ぬまで考え抜いた苦闘の跡、こだわりから解放されず未達を生きた学究としての行路が、それぞれに書いた著作を読めば伝わってきて、心ふるえたりするのだが、残念ながら竹田青嗣の文章にそこまでのものはない。

ニーチェの思想は、ポストモダン思想、とくにミシェル・フーコージル・ドゥルーズによって相対主義的認識論の大きな後ろ盾とされてきた。しかしこれは、彼らがニーチェの「力相関性」の構図をまったく理解しなかったことからきている。
(第二章「近代哲学の苦闘と「認識の謎」の解明」p68)

 

ウィトゲンシュタインは「語の意味はその『使用』である」と言っているが、この言は、言語ゲームのなかで言語の意味は多様な「信憑」の構造をもちうる、という意味で受け取らねばならない。だが、ウィトゲンシュタインのこの示唆を本質的な仕方で理解している言語哲学者は、私の知るかぎり見出せない。認識問題の解明という発想が存在しないからである。
(第四章「「言語の謎」と「存在の謎」の解明」p127-128)

 

フッサールの「生活世界」の概念は、ユルゲン・ハーバーマス現象学的社会学を標榜するアルフレッド・シュッツ、また、ニクラス・ルーマンなどによって援用されている。しかしここでも、フッサールのいう「本質学」の概念が正しく理解されているとはいえず、人文領域における普遍的な本質学というフッサールの構想は受け継がれていない。
(第五章「本質観取とは何か」p163)

 

デリダのみならず、フーコードゥルーズなどの現代思想家は、おしなべて社会から国家の「権力」や「法」を取り払ったときに真の「正義」が可能となる、という素朴な、しかし強固なロマン主義的表象から逃れられないでいる。
(第六章「現代哲学と社会理論の隘路」p228)

ああ、感想文だ、という印象だ。そんなことにページを使うくらいなら「自由な市民社会」の確立に必要な戦力のようなものを開いたらいいのになと思っているところに出会う文章は次のようなものなんで、やはり、ああ、と思う。

近代に始まった「自由な市民社会」の理念の成否は、資本主義が格差の拡大を適切に制御できるか否かにかかっているといっても過言ではない。
(第七章「「社会の本質学」への展望」p250)

 資本主義がなぜ主語になるのか。格差の拡大の制御は資本主義の本質とは何の関係もないと思うのだが、いかがなものか。「市民社会」と「国家」の関係についてもまともに論じられおらず、「自由な市民社会」の確立と維持がいかにしたら可能かの考察がまったく足りていない。マルクス(1818 - 1883)が生き返って、本が読めるようになったとしても、見向きもされないだろう。

竹田青嗣は教師としては大変優秀だけとおもうけれども、社会変革家としての才能は感じられない。本書を読んでも社会活動家としての竹田青嗣には金銭提供も行動参加(労働供与)もまったくしようと思わないところ、あるいは逆に参加することに畏れを抱かせるところにまで行っていないところが、少なくとも私に対しては影響を与えるような人物や思想ではないということを物語っている。お金を払って教師竹田青嗣と勉強したいという気持ちは、もちろんある。そこは別物だ。教師としてはすぐれている。いろんな意味で。

 

目次:
序 哲学の方法と功績
第一章 哲学の謎と普遍認識
第二章 近代哲学の苦闘と「認識の謎」の解明
第三章 現象学批判と『イデーン』解読
第四章 「言語の謎」と「存在の謎」の解明
第五章 本質観取とは何か
第六章 現代哲学と社会理論の隘路
第七章 「社会の本質学」への展望

www.nhk-book.co.jp

 

竹田青嗣
1947 -

【付箋位置】
40, 50, 60, 63, 64, 68, 81,90, 95, 114, 127, 128, 132, 142, 153, 162, 163, 178, 184, 192, 216, 221, 228, 234, 248, 249, 250, 253, 261, 263, 275

 

マルティン・ハイデッガー『現象学と神学』(原書 1927, 1964, 1970 理想社ハイデッガー選集28 渡部清 訳 1981) 言葉をめぐる二つの著述

題名に神学の文字がはいる二つのテクストはともに言葉をめぐる思索の成果である。「現象学と神学」は学問の言葉について、「「現代の神学における非客観化的思考と言表の問題」に関する神学的討論のための主要な観点に与える若干の指摘」は詩の言葉についての考察というふうに受け止めることができる。

 

ハイデッガーを読む時は、簡単に咀嚼することができず、引っかかりつまづくことが多いので、訳者が用意してくれた訳注やその他の言葉にも目を通すことが多くなってきている。今回は「訳者あとがき」に含まれていたハイデッガーの言語観に関する記述がとても印象深く、テクスト読み取りにも大きく役立ってくれた。

ハイデッガーは、ギリシア的言語観、つまり人間が言語をもつという立場および論理的科学的思考の場を離れ、現われ来たるるものの語りに傾聴し応答するというヘブライ的言語観に近く立っていると言えよう。( 訳者あとがき」p70 )

 なるほど、待ち受けるのが基本姿勢のタイプ。容易には攻めないタイプ。そういう前提で読むとハイデッガーの言葉はよりしっくりしたものとなってきてくれる。

詩作的言表は、「そこに居合わせていること<臨在していること>」であり、そして神(der Gott)のためのものである。臨在性とは、何ものも欲せず、いかなる成果もあてにしない素直な姿勢をいう。そこに居合わせていることとは、神の現在を純粋に語るがままに語らせるということである。(Ⅱのうち「指摘への補足」p65-66)

神という語を使われると、西洋的な創造主かつ審判者たる人格神のイメージがより強く浮かんでしまうが、どちらかといえば創造自体の働きを想像したほうが「そこに居合わせていること<臨在していること>」という詩作的言表の在り方とは併存しやすい。東洋的にいえば造化とか道(タオ)とかに近いだろうし、洋の東西を問わず自然や世界といったものが、語るもの、語りかけるものであるだろう。詩人はだれよりもその語りを聴くものである。語りに共振し打ちふるえるものである。

一方、学問の領域はどうか。哲学者や神学者といった研究者たち同士の言葉はどういった関係にあるか、そういったことが語られているのが講演「現象学と神学」になる。対立と同時的にある交通の豊饒さをいかに保守展開するかという観点から学問のあり方が問いにかけられる。

学問間の交通がその純正さと活気と豊饒さとを獲得し維持しつづけられるのは、そのつど自己表明する実証的-存在者的問いかけと超越論的-存在論的問いかけが相互に、問題となる事柄に対する直覚力と学問的礼節の確かさとによって導かれるときだけであり、そして諸学問の支配権、優位、妥当性に対するすべての疑問が学問的問題自身の内的必然性の背後に引き下がるときだけなのである。(Ⅰのうち三、「実証的学問としての神学と哲学の関係」p46 )

相容れない基礎部分や基本概念の照合により、語り、反省し、自己自身の枠の内で自己自身を乗りこえていく。交通による豊かな緊張感、並立の倫理といったところか。神学的なものと哲学的なものは相互に影響はするが、それぞれの領域でそれぞれの問題を生きている。

たとえば罪という概念はただ信仰においてのみ明らかになるだけであり、そして進行する者のみが事実上罪人として実存しうるのである。(Ⅰのうち三、「実証的学問としての神学と哲学の関係」p40 )

罪は神学あるいは信仰の世界にある言葉で、哲学の領域では別の言葉(ハイデッガーは「「負い目」を対置させていた)で問いを追求する必要がある。信仰世界の実存者と哲学世界の実存者では、その内的必然性は異なるもので、使用する言葉もまた異なる。各人がその内的必然性を問い且つ問われながら、言葉が交通のための手段であることをやめないよう励みすすむのが学問的世界であるだろう。

 

目次:

まえがき

Ⅰ 現象学と神学 1927
 一、神学の実証性
 二、神学の学問性
 三、実証的学問としての神学と哲学の関係

Ⅱ 「現代の神学における非客観化的思考と言表の問題」に関する神学的討論のための主要な観点に与える若干の指摘 1964
 第二の主題に対する若干の言及
 指摘への補足


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
渡部清
1940 -

マルティン・ハイデッガー『世界像の時代』(原書 1938, 1950 理想社ハイデッガー選集13 桑木務 訳 1962)第二次世界大戦勃発前の講演

一九三八年六月九日、もとは「形而上学による近代的世界像の基礎づけ」と題されて行われた講演とそれに付随するハイデッガーによる補遺。近代の偉大さと危うさをめぐる思索が展開されているなかで、大戦前のきな臭いにおい、危機感のようなものも伝わってくる。

 

神々の退場は、宗教性を完全に排除するどころか、むしろ神々の退場によってはじめて、神々と〔人間と〕の関与(かかわり)が、宗教的な〔人間的〕体験へと転ずるのです。ことここにいたって、神々は逃げさります。こうして生じた空虚は、神話を歴史記述的(ヒストーリッシュ)に心理的に探究することによって、埋められているのです。(p7)

 

近世の根本的な出来事は、像(ビルト)として世界を征服してゆくことです。像という言葉はいまや「まえに立てながら・こちらに立てるという・形像(フォアシュテレント・ヘルシュテレンデス・ゲビルト)」を意味しています。この形像において人間は、すべての存在するものに尺度を与え且つ準縄を引くような、そのような存在するものでありうるための地位を目ざして闘うのです。ところでこのような地位が、世界像として確保され、組織づけられ、表現されるので、存在するものに対する近代的な関係は、その展開の極致においては、世界観相互の対決となって現われてきます。(p37)

 

神々が退場し、逃げさった後の世界に、容易に神話的世界像を持ち込もうとすると危ういが、超越的なものが抜けさってしまったあとの空虚とむきだしの生に徒手空拳のまま耐えるというのもまた酷だ。講演から八〇年ちょっと経った現在、世界はまた酷薄な様相を色濃くしつつある。そんな世界のなかでは、うまくガス抜きができるような抒情の回路、火種となりそうなものを湿らせる程度の抒情の蓄積を、文化的なもののなかから引き出しつつ、現状に向ける視線を多層化する。薄いベールを何層か重ねて、むき出しだけは避ける。個人にできることといったらひとまずそれくらいだろうか。

 

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
桑木務
1913 - 2000

マルティン・ハイデッガー『思惟の経験より』(原書 1947, 1954 理想社ハイデッガー選集6 辻村公一 訳 1960)パウル・ツェランに贈った詩的テクスト

アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というアドルノの言葉が広まっているにもかかわらず、プリーモ・レーヴィパウル・ツェランを読んでしまったあとでは、むしろ、「アウシュビッツ以後、詩を書かないですんでいることは野蛮だ」もしくは「詩を書くこと以外は野蛮だ」と宣言したほうが正しいのではないかという思いに駆られる。無論、どんな詩を書くかということは、大きな問題なのだが、ハイデッガー『思惟の経験より』の訳者である辻村公一の言葉を借りるなら

「思惟する詩作」、つまり「歌う」という仕方での「詩作」から区別された「思惟する」という仕方での「詩作」

 それ以外のあらゆる行為は野蛮だということになろうかと思う。「思索としての詩作」あるいは「詩作としての思索」というハイデッガーのテーゼの外にある行為。単なる計算で済んでしまうような行為は野蛮だ。野蛮といわれても仕方がない。考えずに済ますのは野蛮だというふうに言われれば、そうかもしれないと私などは思ってしまう。
マルティン・ハイデッガーは哲学詩ともいえるような作品『思惟の経験より』を書いた。それは、ハイデッガーの内面が要請した確かな思索に基づいた詩的作品なのであろが、立場の異なるパウル・ツェランに、出会いの記念に贈るような作品であるかどうかということになると、かなり疑問は残る。片や内部批判を受けて疎外されることにはなるもののドイツ民族の立場からナチス政権に加担した経歴のあるハイデッガーと、両親を強制収容所でうしない、自身も強制労働施設に送られた経験を持つパウル・ツェランでは、立場が大きく異なる。運命に導かれて出会わざるを得ない二人であったにせよ、傷、ことさらパウル・ツェランの側の傷をを深めるだけの遭遇に終ってしまった観があり、大変痛ましい。『思惟の経験より』にはヘルダーリンの次のような詩句の引用も含まれている。

隣り合った雙樹、彼等は立てる限り、相知ることなし。

 敢えてハイデッガー側からツェランに贈るべき言葉だったかどうか、そのまえにハイデッガー自身の口から直接に、詫びなり弁明の言葉なりがツェランに伝えられたら、事はも少し穏やかなものになったかもしれないのに、結果としてはツェランがより大きくまた深く傷つくことで二人の関係は終わってしまった。

 

道(みち)と衡(はかり)
彴(はし)と言(ことば)
それらは一つの行路(あゆみ)の内へと合はされて行く。

行(ゆ)きて 負(お)へ
禍(とが)と問(とひ)を
汝の一筋の徑(こみち)に沿つて長く。

 

「行きて 負へ / 禍と問を」と述べるハイデッガー、それを被害者ともいえるツェランに(無邪気に? 能天気に?)贈ってしまうハイデッガー。思索そのものは目を見張るものであるかもしれないが、人間的にはいかがなものかというふるまいが、伝記的なところを追っていると多々出てくるのも事実だ。


マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
パウル・ツェラン
1920 -1970
プリーモ・レーヴィ
1919 - 1987
テオドール・アドルノ
1903 - 1969
辻村公一
1922 - 2010

彌生書房 世界の詩15 『マヤコフスキイ詩集』(小笠原豊樹訳)

20世紀にはロシア革命があり、ソビエト社会主義共和国連邦という国があった。マヤコフスキーは革命の熱の中を生き、燃え尽きてしまった詩人。本書で触れることのできる詩の数々は、今はもう冷え切ってしまった社会改革への期待を高らかに歌っている。時代の波に流されて、今では空疎な感じとともにしか読めなくなってしまってはいるが、遺物感ただよう内容と、今の時代にもつながる軽くて見栄えのする詩の形の組み合わせは、なにか気になる要素をもっている。わたしの中では、どことなく苦い体験のサンプルのようなものに変質して、革命の詩人の名前が残っている。

 

戦いのなかで
      建てた
         社会主義を、
ぼくらみんなの
       記念碑にしよう。
子孫のきみら、
      字引の浮標(ブイ)を調べてごらん。
三途の川から
      流れてくるぞ、
            こんな言葉の残骸が、
<売春>、
    <結核>、
        <経済封鎖>。

(「声を限りに」部分)

 

廃墟となった記念碑は、言葉を奪う。奪われた後の空虚に何を詰め込むようにしたらいいのかは教えてはくれない。

 

ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・マヤコフスキー
1893 - 1930
小笠原豊樹岩田宏
1932 - 2014

 

マルティン・ハイデッガー『モイラ ―パルメニデス・八・三四-四一』(原書 1954, 理想社ハイデッガー選集33 宇都宮芳明訳 1988)

モイラは「運命」もしくは「割り当て」で「送り定めながら配分する」はたらきとして提示されている。ギリシア神話では寿命をあやつり決める女神の地位で、時に無常の果実を用いて相手から力を奪うという技も持っているらしい。

運命の最たるものは死で、ハイデッガーによると死は以下のような相貌に収まる。

思考にただ安全の保障だけを期待し、それが用いられずに済むようになる日を指折り数えているひとは、思考に自己否定を求めているのである。われわれが、死すべきものたちの本性がかれらに死に至るように命じる指図に注意することへと呼ばれているのを熟考するならば、この要求はある常ならぬ光のうちで現れる。死は死すべきものの最極端の可能性として、可能なるものの終わりではなく、呼びつつ顕わすことの秘密の最高の集蔵(集中しつつ保蔵すること)なのである。

「可能なるものの終わり」ではない死、「最極端の可能性」としての死は、死を迎える本人として想像する限り、具体的なイメージが湧かないので困る。本人の意思や思考とは離れたところ、突然死や意識混濁の状態下での死だって当然あるはずで、死の秘密に向き合う間もなく死んでしまうことの方が多いだろう。だから、普段から死すべき存在としての己をよく吟味しておけというのなら話は分かりやすいが、ハイデッガーはなんかもう少し秘教的なことをいっているような気がして、読後のおさまりは悪い。死による完結もしくは中断は生き残った側にいる人にこそ意味があるような気もするが、それは自分の死ではなく、他の人の死で、死そのものというよりもやはり人の完結、中断、逝去、物故など、やはり他者の生前の活動に絡んだ印象にとどまるものだろう。自分が死ぬそのときに「秘密」なんて知りたいとは思わない。よかったとかそれこそ何らかの至福が保証されるなら、そのタイミングでの開示でもいいけれど、そうでなければ次がないし、その時を保蔵することも不可能だろう。ということで、ハイデッガーの「呼びつつ顕わすことの秘密の最高の集蔵」としての死については判断保留で、そういう考えが存在しているということを記憶しておく。

パルメニデスの断片八の三四-四一冒頭は《思考することと、あるがあるという思想〔思考されたこと〕とは同じである》というもので、同じく断片三《なぜなら、思考することと存在することは同じである》の解明にあたるものとのことだ。

存在の開けは思考の開けで、思考の開けが存在の開けであるともいえるだろうか。

すべては表象作用に対して存在するものとなる。
存在することと存在するものの二襞は、そのものとしては本性なき空虚なもののうちへと消え去るように見える。とは言え、思考はそのギリシア的端緒以来、たえずこの二襞が開襞したものの内部で動いているのであって、しかしそれでも思考は自らの滞留する場所を熟考することはなく、ましてや二襞の開襞に思い及ぶことはないのである。
(太字は実際は傍点)

「自らの滞留する場所」としての「存在」で、「存在」が「二襞の開襞」を「明める」。ハイデッガーパルメニデス解釈で重きをなすのはこの部分だろうし、「二襞」「開襞」という独特の言葉も読み手を鷲づかみにする。ただ、個人的には「すべては表象作用に対して存在するものとなる」の一文の方が気になる。表象作用とその根底にあるであろう抽象化作用がすべてを「明める」。こちらの線で他の論述を読みすすめていくほうが、いまの自分の気分にはあっている。脱衣のエロスばかりでなく、着衣のエロスもまた存在する。

マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976
ヘラクレイトス
B.C.500 or 475 - 不明
宇都宮芳明
1931 - 2007

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】08 着地: 神秘思想読書チャレンジ中のBGMはずっとバッハの「音楽の捧げもの」だった

4連休用に準備した神秘思想関連本、プロティノス、マイスター・エックハルトスウェーデンボルグ、ルドルフ・シュタイーナー、カンディンスキーウィリアム・ブレイク。6人中4人で7割弱程度の達成率。ブレイクは息抜きに中途半端に読むよりも、別途ちゃんと読んだ方がいいかなという思いもありスキップ。スウェーデンボルグ高橋和夫スウェーデンボルグの思想 科学から神秘世界へ』(講談社現代新書 1995)があれば読めたものの、連休期間中に紛失という予想外の展開があり、時間的に『天界と地獄』に踏み込むことも無理そうだったので断念ということで収まった。


実際に読んだものでは、エックハルトの「離在」とプロティノスの「素材(ヒュレー)」は、かなり深く記憶に刻まれて、のちのち効いてくる時間を過ごせてよかったと思う。

 

ところで、BGMの話。本を読む時は基本的に何かしらCDで音楽をかけているのだが、今回の神秘思想関連本にあわせたのはバッハの「音楽の捧げもの」。普段の在宅ワーク時に「音楽の捧げもの」をかけると、整いすぎていて、聴いていると冷たさも感じるので、選択肢には入らなくなってしまって久しいのだが、この連休にはとてもフィットした感じ。読みはじめのおためし時期の時間帯に、サティの「ヴェクサシオン」もけっこうはまったのだが、4日通しで「ヴェクサシオン」にはさすがにおそれをなしたので、次の沈潜系のラインナップの時にとっておくことにした。

 

明日からは、また日中は通常モードに戻る。通常モードで一番よく聴くのは、坂本龍一の「Out of Noise」。延々聴いていられる凄さ。1年半くらいずっと聴いているような気がする。飽きない。雨や風の音を聴いているときの感覚に近い。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
1685 - 1750
坂本龍一
1952 -