読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ハイナー・ミュラー『ゲルマーニア ベルリンの死 ― ハイナー・ミュラーの歴史を待つ戯曲集』(早稲田大学出版部 1991)

ハイナー・ミュラー(1929-1995)は、ブレヒトを批判的に継承し発展させた旧東ドイツの劇作家。西側世界のベケット、東側世界のハイナー・ミュラーというように紹介されることもしばしばある存在。

本書は日本初刊行のハイナー・ミュラー戯曲集で、1950年代の初期作品から1970年代前半までに書かれた七作が収録されている。ナチス・ドイツファシズムソビエト主導の社会主義世界における集団組織と個人の関係をペシミスティックに描いているのが作品の基本的トーンになっている。世界レベルでの経済的な危機的状況における対立構造の中、共同での生産活動が統制的に行われていた息苦しい社会において、個人の活動がどのような相に流れ収まっていくのかを各作品が描き出している。答えというものが明示的に示されるようなことはなく、見る者や読む者に痛みを感じさせる劇空間が凝縮されたかたちで提示されているばかりである。特に観客を想定しない教育劇として書かれたシナリオ『ホラティ人』と『モ-ゼル』などは、演技という層を恃むことなく書かれているようなテクストでもあり、読むだけの者にも、上演者としての立場を突き付けてくる近迫性を持っている。

コーラス:
君は一回きりの死を死ぬのだ。
しかし革命は多くの死を死ぬ。
革命は多くの時間を含み、どの時間も
多すぎることはない。人間は自分の仕事以上のものだ
そうでなければ人間は存在しないだろう。君はそれ以上のものでなく
君の仕事が君を使い果たした
君は大地の表面から消えねばならない。
(『モ-ゼル』より)

コーラスを届ける側であれ、コーラスを聴く当事者側であれ、人生を賭けた仕事とその終焉としての死ということを扱っていることに強い緊張感がはしる宣告の時空間。ストア派哲学者のような得心のなかでの終焉なのか、犠牲や悔恨などの負の感情の辱められた状態でむかえなければならない終焉なのか、さらには、個人の死を超えてあるという革命は、本当に望ましい革命なのか、成りゆきで選択せざるを得ないようになってしまった革命なのか、正解なのか、不正解なのか、回収されるのかされないのか、最終解なきまま、言葉は放たれる。答えは読み手それぞれなかに生まれてくるのかもしれないが、切迫した状況の亀裂のように書きとめられた言葉の存在感が、作品の存続と成立に関与してしまった教育劇の参加者に、後を引くようにして残る。

 

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【付箋箇所】
45, 153, 174, 280, 304, 318, 321, 328, 344, 348, 379

目次:
《市川明訳》
戦い ― ドイツの光景(1951/74)
ラクタ-(1955/61/74)

《越部暹訳》
賃金を抑える者(1956)
ゲルマ-ニア ベルリンの死(1957/71)
福の神-断章(1958)

《吉岡茂光訳》
ホラティ人(1968)
モ-ゼル(1970)

解説:
越部暹 ブレヒトからミュラ-へ ―ミュラーの半生にも触れて
市川明 ハイナー・ミュラーの作品について
吉岡茂光 革命もしくは主体の壊乱 ―ハイナー・ミュラーの教材劇『ホラティ人』及び『モーゼル』について
高橋順一 歴史の中の天使 ―ヴァルター・ベンヤミンの思考をめぐって


ハイナー・ミュラー
1929 - 1995


参考:

uho360.hatenablog.com