読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【ヘーゲルの本四冊】ヘーゲル『歴史哲学講義』(岩波文庫全二冊 1994)、仲正昌樹『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書 2018)、長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社現代新書 1997)

ヘーゲル『歴史哲学講義』

『歴史哲学講義』はヘーゲル晩年の講義録。アジアにはじまり西欧ゲルマン民族のゲルマン世界にいたる発展史観は『美学講義』とも同じ流れ。二十一世紀に生きるアジアの端の日本人読者としては、すべてをはいそうですかと拝読するには抵抗を感じる部分もあるものの、西欧人から見た東洋人の特徴といったところには傾聴に値するものも多い。

東アジアから西アジアへの歴史の移行は、歴史上の外面的なつながりとしてあらわれるものではなく、わたしたちの概念のうちにあるものにすぎません。移行の原理は、ブラフマンのうちに見られた普遍的なものが、いまや意識の対象となり、人間にとって積極的な意味をもつところにあります。ブラフマンは、インド人の尊敬の対象となるものではなく、対象の形をとらない個人の状態ないし宗教感情にすぎず、具体的な生命力をむしろ消滅させるようなものです。が、この普遍的なものが対象としてあらわれるようになると、それは積極的な力をもち、人間を自由に解き放って、客観の側にある最高存在と対立するにいたらせる。そうした普遍がペルシャにあらわれるのが見られ、とともに、個人はこの普遍から身をひきはなすと同時に、この普遍と一体化しようとする。中国やインドの原理には、普遍から身をひきはなす場面がなく、あるのは、精神と自然の統一だけだった。しかし、いまだ自然のうちにある精神は、自然から自由になるという課題を負っているのです。
(上巻 第1部 東洋世界 第3篇 ペルシャ p284 )

ところで、空想的な広がりのなかで普遍的な一をとらえるのは、一般的にいって、東洋人の得意とするところです。すべての限定されたものを放逐する途方もない直観は、東洋人に固有のものですから。
(下巻 第3部 ローマ世界 第3篇 帝政の時代 p179) 

 

ブラフマンにも老子のタオにも強い関心を持っている私のうちに「具体的な生命力をむしろ消滅させるようなもの」への親和的傾向がないというようには言い切れない。穏やかなニヒリズムに対する憧れというように指摘されればそれも否定しきれない。先日のヤスパースも、今回のヘーゲルも、それでは自由も交流も足りないではないかと指摘したいのだろう。民族的な体質なら変えようもないとも思うが、とりあえず記憶にとめておくようにしたい。

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仲正昌樹ヘーゲルを越えるヘーゲル

現代思想におけるヘーゲル思想の検討を広い視野で概観し、いろいろな思想家の仕事に導いてくれる、誘いの多い(呪詛の多いあとがき以外は)魅力的な一冊。印象的にはアウシュヴィッツの時代をユダヤ系ドイツ人として生きたアドルノベンヤミンへの導きが、ほかよりも強く感じられるが、今日の日本ではあまり著作にお目にかかれない渋めのコジェーヴとイポリットへの言及に興味を惹かれた。いずれも「人間の終焉」という視点を含む論考の紹介となっている。

コジェーヴの理解では、自分に固有の様式美に拘る「日本人」は、真の自己を探求したり、自由になろうとして他者と争ったり、自らの奉じる価値の普遍性を主張したりしない。自由と普遍性を追求する「歴史」や「人間性」とは無縁である。しかし、再動物化して、自らの身体的・自然的欲求に従っているアメリカ人とは違って、確立した「様式」に徹するという形で、自らの動物性を制御し、自己に規律(disciplines)を課しているように見える。
(第一章 「歴史の終わり」と「人間」 p63 )

これはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1989年)に先行する論考で、『ヘーゲル読解入門』の注記のスノビズム論の紹介。アメリカ的動物化の浸透により日本的スノビズムが消えかかっているように思えるときに、もう一度見直してみてもよい考えであると思う。

イポリットについてはヘーゲル研究における「自由」と「死」の重層化に関する指摘が興味深い。

イポリットが実際に「死の欲動」論を念頭に置いたかどうかは定かではないが、「自由」の極限が「死」であるという見方は、「快楽=緊張の解放」の極限が「死」であるという後期フロイトの思想に通じていることは確かである。そして、このことは「主体」、あるいは「人間」の「終焉」をめぐる現代思想の重要テーマと、深くかかわっている。
(第二章 「主」と「僕」の弁証法 p113 )

 

イポリットはドゥルーズデリダフーコーの先生でもあったのに日本ではあまりなじみがない。コジェーヴとは違ってオンデマンドではあるけれども岩波書店で主要著作が入手可能ではあるが、値段も分量もかなりハードルが高くてけっこう躊躇う。区立図書館にはないが近くの大学図書館にはあるらしい。貸出可能になるように外部聴講生にでもなってみようかと考えている。

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【付箋箇所】
44, 60, 63, 79, 113, 147, 151, 161, 164, 176, 178, 188, 205, 232

目次:
ヘーゲルの何が重要なのか?
第一章 「歴史の終わり」と「人間」
第二章 「主」と「僕」の弁証法
第三章 承認論と共同体
第四章 「歴史」を見る視点
あとがきに代えて 「理由」が喪失するとき

 

長谷川宏『新しいヘーゲル

ヘーゲルの面白さを新鮮な訳文で紹介し直してくれた訳者による導入書。ヘーゲル思想の概要を手際よく紹介した後に、現代でヘーゲルを読み直す意味合いも問いかけている。
ゲルマン民族プロテスタンティズム啓蒙思想、近代市民社会の優越を説いたヘーゲルのドイツが、二十世紀にナチズムを生みアウシュヴィッツを生んだ。そのあとの時代を生きるものは、ヘーゲルを一頂点とする西洋近代思想の問い返しをしなければならない。アドルノの『否定弁証法』などを引きながら、歴史と思想の問い返しへと注意を向けさせている。

宗教改革啓蒙思想フランス革命に近代の近代たるゆえんを見るヘーゲル哲学は、ナチズムよりも反ナチズムにつながる面がはるかに大きいとひとまずはいえる。
ならば、しかし、その近代文明のただなかで、近代文明を生きる多くの人びとがなにゆえに反近代の思想に強く惹かれたのかが問われねばならない。そして、近代精神ないし近代思想がナチズムへの抵抗の思想としてなにゆえ有効な力を発揮できなかったかが問われなければならない。
(第6章「ヘーゲル以後」p193 )

 

歴史も生活も止めて考えることはできないので、歩きながら、足元とちょっと先を見ながら、考えられることを考える。あるいは考えているだろう人のことばに接してみるようにする。

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【付箋箇所】
15, 63, 81, 83, 157, 193

目次:
第1章 ヘーゲルはむずかしいか?-弁証法入門
第2章 『精神現象学』-魂の遍歴
第3章 世界の全体像ー論理・自然・精神
第4章 人類の叡知ー芸術と宗教と学問と
第5章 近代とはどういう時代かー日本と西洋
第6章 ヘーゲル以後

ヘーゲル
1770 - 1831
仲正昌樹
1963 -
長谷川宏
1940 -

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