読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジョン・ミルトン『楽園の回復・闘技士サムソン』(原著 1671, 訳:新井明 大修館書店 1982)

『楽園の回復』と『闘技士サムソン』は1671年に合本として刊行されたのが最初。実際の制作時期に関しては『楽園の回復 Paradise Regained 』が1667年以降、『闘技士サムソン Samson Agonistes 』が1668年以降と推定される。
ミルトン晩年の三作品『楽園の喪失』『楽園の回復』『闘技士サムソン』のうち、日本で圧倒的に読まれ複数の翻訳が存在しているのは『楽園の喪失』で、次いで『闘技士サムソン』、最後が『楽園の回復』となる。本書の解説で知ったところでは、『楽園の回復』の翻訳は、本書のほかは篠崎書林の才野重雄訳があるだけで、双方ともに蔵書として持っている図書館の数もかなり限られている。実際読んでみると、広く読まれないことが不思議なくらいに、よくできている作品だと思うのだが、文庫化してみようという出版社がないのがすこし悲しい。
『楽園の回復』のベースになっているのは、『新約聖書』の「荒野の誘惑」で、サタンがイエスに幻術と巧みな言葉によって神に離反させようと誘惑をするエピソードで、聖書ではわずかな分量に圧縮されて記述されているところを、ミルトンは大きくふくらまして、全四巻、総行数2070の長篇詩に仕上げている。主人公は誘惑を受けて立つイエスではなく、斥けられることをなかば予感しながらそれでも挑み続ける悲哀をまとった誘惑者サタンであるようだ。憐れむべき存在ではないサタンがたいそう憐れに見える。
乾いた対話篇で、小説のような散文性がありながら、詩情ゆたかな作品。

『闘技士サムソン』は、私にとっては弓書房の小泉義男訳に次いで二度目の通読となる。いま全篇を比較することはできないが、メモとして残っている小泉義男訳に比べると、本書の新井明訳のほうがこなれていて且つ音楽的でもある。小泉義男訳で十分満足した作品ではあったが、舞唱団コロスを擁する劇詩の体制を採る『闘技士サムソン』にあっては、より適した翻訳をしているのではないかといまは感じる。

小泉義男訳:

大変多く、又非常に大きいので、その出来事は一つ一つ
嘆き悲しむのに一生を要するだろう。だが、就中、
ああ、視力の喪失、わしには一番お前が不満だ!
敵の中で盲目であることが、ああ鎖より尚悪い、
土牢、乞食の境涯、老衰した年令よりも!

新井明訳:

不幸の数は多く、また大きく、どのひとつを
嘆くにも一生を要しよう。ただ、なかでも
おお、視力の喪失よ。その嘆きは、底なし!
敵どもに囲まれて盲いるとは。おお、鎖よりも、
土牢(つちろう)、乞食、老いの境涯よりも、なお、惨め。

上記はともに65から69行目までの翻訳。新井明訳は、より発生しやすいリズムを持った詩行に整えられているように感じる。

【付箋箇所 (行数)】
『楽園の回復』
第1巻:387-405, 493-498, 第2巻:379-391, 第3巻:204-222, 第4巻:179-194, 321-330, 606-621

『闘技士サムソン』
58-73, 80-89, 153-161, 412-419, 497-501, 510-515, 560-572, 655-666, 


ジョン・ミルトン
1608 - 1674
新井明
1932 - 

参考:

uho360.hatenablog.com