読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

サミュエル・ベケット『ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』(白水社 岡室美奈子訳 2018)

ベケットの作品は小説も戯曲も基本的に目的も到達点もない。戯曲については、プラトンの対話篇と並べて読んだりすると、その違いに呆然となる。プラトンの対話篇は遠回りしているかに見えても中心主題に向けて求心的に進んでいくが、ベケットの対話はきっかけもなく習慣的に抜けられずにいる状況をどうしようもなく繰り返し演じてしまう堂々巡りに終わる。一歩も進まないというか、時間が過ぎるだけ余計に救いようようが無くなる、そのどうしようもなさを自覚しながらなにもできない登場人物のお手上げ状態を見せられて、うんざりしつつも笑えない状況を笑って受容してしまう。岡室美奈子の新訳は、セリフに柔らかみがある分、ベケット劇の喜劇性がよりよく感じられてとてもいい仕事ではないかと思う。

戯曲ではおしゃべりの相手が必要なためにカップリングされた人物たちが登場する。特にやりたいこともなく、起きて動くぶん疲労と傷が一方的に蓄積していくような状況のなかで、退屈と痛みに耐えながら時を過ごす。舞台という制約もあって基本的に言葉をしゃべるだけで動かない。動くときは、転ぶ、坐る、うろつきまわる、蹴る、掴むくらい。救いようのない日々ではあるが、「淋しい」という感情が人をよりつよく結びつけ、互いに自覚しながらの共依存関係を生きている。『ゴドーを待ちながら』におけるウラジミールとエストラゴン、ポゾーとラッキー。『エンドゲーム』におけるハムとグロヴ、ネルとナッグ。ひとりではどうなることかわからないが、もうひとりいることでとりあえず応答のルーチンが可能になる。多少か希少かは不明ながらも、抉ってくるような時間を耐えやすく削ってくれる言葉と身ぶりのやり取りがある。喜劇性とともに、意味を根底では求めながらも意味なき世界の非情に触れることができる20世紀の逸品と言ってもいいだろう。

 

悪あがきの繰り返しってやつです。(闘いに思いを馳せながら考え込む。エストラゴンのほうを向いて)で、またおまえかよ。
(『ゴドーを待ちながら』第一幕 ウラジミール)

 

クロヴ:ひとつだけ、どうしても理解できないことがある。(脚立を降りきる)なんでいつもあんたの言いなりなんだろ。説明できる?
ハム :いや……哀れみかもしれないな。(間)崇高な憐れみというやつだ。(間)まあおまえには簡単にはわからないさ。簡単にはな。
(『エンドゲーム』)

 

わからないながらも強固な関係性によって救われ且つ墜ちている現世的世界の描出。

 

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目次:

はじめに

ゴドーを待ちながら(1952)
エンドゲーム(1957)

草稿から読み解く『ゴドー』
作品と翻訳について

 

サミュエル・ベケット
1906 - 1989
岡室美奈子
1958 -