読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『日々はひとつの響き ヴァルザー=クレー詩画集』ローベルト・ヴァルザー 詩 + パウル・クレー 画(平凡社 2018 編:柿沼万里江 訳:若林恵,松鵜功記)

2012年、スイスで開催された東日本大震災の一周年追悼式で、クレー作品を映写しながらのローベルト・ヴァルザーの詩の朗読会が行われたことがきっかけとなってつくられた詩画集。日本語とドイツ語で行われた朗読会での聴衆の反響が大きかったことから、拡大編集と書籍出版にまでいったのだから、大したことだ。
ヴァルザーとクレーの組み合わせは、批評家スーザン・ソンタグのヴァルザー評、ヴァルザーは「散文によるパウル・クレーである」という示唆による。散文小品ではなく詩が選ばれたことは、短時間に彩り多くという主宰者側の狙いもあったのであろうが、詩に関心を持つものには嬉しい選択である。朗読会で実際に選ばれた8篇を、本詩画集でのクレーの絵とのカップリングでたどり直すと以下になる。

詩「事務室で」-絵「月は登り日は沈む」(p12-13)
詩「窓辺で Ⅱ」-絵「外は色とりどりの人生」(p38-39)
詩「雪 Ⅰ」-絵「雪の日に思うこと」(p18-19)
詩「ちっちゃい風景」-絵「泣いている天使」(p30-31)
詩「日暮れ時 Ⅳ」-絵「秋を告げる使者」(p90-91)
詩「徒歩の旅人」-絵「若木の植林地」(p118-119)
詩「小さなものたち」-絵「どこから? どこ? どこへ?」(p120-122)
詩「新聞」-絵「Lu.近郊の公園」(p124-125)

こうして書き出してみて、個人的に朗読会を縮小再現させてみると、ヴァルザーの詩もさることながら、クレーの絵のチョイスが凄い。詩画集の味わいとはまた異なる、現場に波及したであろうインパクトが追体験できる。素晴らしい知と感性の企みであることが分かって、その場に居合わせなくても単なる一人の読書であっても、心が震える。もし関心を持った人がいるならば、ページの先頭から巻末まで読み通したあと、追悼式のプログラムで読み返してみることをお勧めする。編集によって別世界が立ち上がってくることが驚きとともに体験できる。若林恵と柿沼万里江の編集選択の力量に負うところが多いのかもしれない。

彼は仮面のように顔を硬直させ、あるいは潰れるまで叩きのめされ、白目を剥き、歯もガタガタに欠けている。すでに亡霊のようだ。しかし、いささかやり過ぎなまでに痛めつけられた顔は、まさにその加減ゆえに、どこか惚けた可笑しみを滲み出させる。けだし、ユーモアとは自己憐憫に陥らない技術である。痛ましさそのものの内から微笑を引き出すこと。クレーはその反転の機微に精通していた。どんなにい状況が過酷でも、そしてたとえ皮肉っぽくではあっても、心が笑えるうちは大丈夫なのだ。
(クレーの「殉教者の頭部」1933年に付けられた柿沼万里江による作品解説 p155-156。1933年はクレーにとっては深刻な逆風となるヒトラー首相誕生ナチス政権掌握の年)

東日本大震災を契機として成った仕事のなかに記されていることを知ると、強い祈りが込められている渾身の言葉であろうと想像してしまう。
いずれも心がこもった仕事の集成となった詩画集。

www.heibonsha.co.jp

 

目次:

境界を超えて レト・ゾル
ヴァルザー=クレー 詩と絵
ローベルト・ヴァルザーについて 若林恵
パウル・クレーについて 柿沼万里江

ローベルト・ヴァルザー
1878 - 1956
パウル・クレー
1879 - 1940