読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

思潮社現代詩文庫200『岡井隆詩集』(思潮社 2013)

日本の詩歌は長歌と短歌からはじまって日記文学や各種物語文学そして芭蕉の紀行文へとひろがりを見せたのち西洋近代詩の影響を受けた口語自由律をも併存させるようになっているのであるから、昭和平成期歌人岡井隆が現代的に短歌形式を取り込んだ実験的詩型や散文的口語自由詩を書くというのはある意味正統であり、歴史を背負ったうえでの最前線の詩語の展開であるともいえる。1960年代までの前衛短歌運動の旗手の一人としての先鋭化した戦闘的かまえの作品と、老年期の深くなるにしたがって詩歌のからめ手と散文のおもて技とが判別つきがたく混淆している一種霊獣的な表現形式が併収されていて、近代的な歌人像の枠からははみ出てしまっている岡井隆の存在がかなりよく見通せるアンソロジー
同じ前衛短歌の旗手でも、孤高を貫く塚本邦雄に対して嫌いとか分からないとか発言しようものなら先方から断罪の言葉とともに切って捨てられて終わってしまいそうで、それはそれでこちらも納得しやすくはあるいっぽう、岡井隆は己の弱さをのみ込んだうえで対話の場に佇みつづけているような風貌が(歳を重ねるごとになおさらに)あるので、かえって読み通したあとの読み手側の姿勢はとりづらい。書き手側が書き方の形式に特にこだわりを強調することなく自在にジャンル混淆的な表現になっていくにしたがって、日本語の詩歌の可能性の現在点が示されているようで、個人の好き嫌いを超えた言語展開の場の力を強制ではなく浸透させようとしている雰囲気がいつのまにか支配的になっている。
言語であり言語にからめとられる人間の殺生を戒めるところの特殊な放生会供養祈願の供養されるものであると同時に祈願する側でもある立場に読む者をいつのまにか連れ込んでしまうほのかにあやしい時空間を構成する岡井隆の現代詩。
犠牲者であり祭祀者であり罪を負い罪を生むものが、長年にわたって洗練し美的に先鋭化し脱俗化した鎮魂と闘争の儀式。平凡と境を接した永遠の相がゆらぎの中に配合されている。

二十にして心朽つほど純ならず
 柑橘をもて
屍臭をはらへ、腐臭を覆へ

(『天使の羅衣(ネグリジェ)』「浮島の」より)

「二十にして心すでに朽ちたり」は李賀の「陳商に贈る」冒頭の絶唱句。李賀は27で亡くなり、岡井隆は92まで生きた。上記引用は60歳での刊行の詩集収録作。

 

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目次:
詩集『限られた時のための四十四の機会詩他』全篇
詩集『注解する者』全篇
『木曜便り』全篇
歌集『眼底紀行』から
『木曜詩信』抄
歌集『天河庭園集(新編)』から
歌集『中国の世紀末』から
組詩『天使の羅衣』から
歌集『神の仕事場』から
詩集『月の光』から 厄除けのための短章

 

岡井隆
1928 - 2020