読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

多田智満子の遺稿からの作品集二冊『多田智満子歌集 遊星の人』(邑心文庫 2005)、『封を切るひと』(書肆山田 2004)

多田智満子(1930 - 2003)と関係の深い、文芸詩歌上の弟と自ら規定する高橋睦郎(1937-)が、故人に生前託された遺稿からの作品集刊行に応えた二冊。まず葬儀参列時に手渡された遺句集『風のかたみ』と告別式式次第に掲載された新作能「乙女山姥」があり、こちらは一周忌に刊行された遺稿詩集『封を切るひと』の付録として再掲されれている。その後、三周忌の際に遺稿歌集『遊星の人』が刊行され、絶版となっていた旧歌集『水烟』(1975)が再録された。

日本語の詩型のうちで現代詩、短歌、俳句、さらには劇詩である謡曲にまで手を染めている詩人はそうはいない。移行編集を手掛けた高橋睦郎と劇作もなした寺山修司と、あとほかに数人が候補に挙がるくらいだろうか。女性ではほかにパッと浮かんではこない。
歌集の栞にエッセイを寄せた穂村弘は、多田智満子について専門歌人とは異なる感触を持った歌を作る人であるという、すこし屈折のある評価をしているが、その評価を意識して遺稿作品集を読み通してみると、いずれの詩型にあっても専門家というか職業作家が成した作品とは違った感触があることに気づく。言語と形式に対して真剣ではあるが、ある種余裕のある遊びの感覚があって、読み手を引き込むような隙が、余白があって、いつの間にか親しみ、馴染みを感じながら読みすすめることができるのだ。死を目前にした時期の創作であっても、息詰まるようなものはほとんどない。そればかりか、複数の詩型に自在にことばを落としこむ軽やかな手つきに、優雅ささえまとわせている。
風のように爽やかに吹きすぎていってしまった人の言葉は、死してなおわれわれ読者の心を揺らさずにはおかない。

これは人にして人にあらず 女にして女にあらず この世に在りてあの世に在り 顕界幽界を往来する 山姥とはわが事なり
謡曲「乙女山姥」より)

 

水すまし水を踏む水へこませて
柵のこち柵のむかうも草ばかり
山襞や腦の襞よりなほ冥く
(遺句集『風のかたみ』より)

 

空を漂流して
漂流して
とうとう空から出ていった

(詩集『封を切るひと』より)

 

生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ
(歌集『遊星の人』より)

 

水仙水仙とよりそふて立つ天地(あめつち)にたつた二人の少年の如く
稲妻の刹那崖(きりぎし)すみれいろ雨ははげしく斜めなりけり
やがてわれを焼くべき火あり野の果に立ちのぼたるり煙ひとすぢ
(歌集『水烟』より)

 

年齢も性別も住んでいる場所も惑星も生死も超えて漂い遊ぶ稀有な詩人。その詩人の言葉は、読むごとに、いまその場で発せられたような不思議な感触を生み出す。

 

多田智満子
1930 - 2003
高橋睦郎
1937 -