読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】01 始動:プロティノスから読みはじめたが、連休の読書ゲームの相手としては格がでかすぎたかもと思いはじめる

プロティノス (205 - 270) 】

『世界の名著 続2 プロティノスポルピュリオス・プロクロス』(中央公論社)からプロティノスの作品

 善なるもの一なるもの
 三つの原理的なものについて
 幸福について

まで読みすすめる。

 

「善なるもの一なるもの」で提示された世界観に、のっけから躓く。

 

プロティノスによる「一なるもの」の像
・形容なしであって、知性によって直知されるような形容さえも有しない
・場所のうちになく、時間のうちにないもの
・認識は困難であって、むしろそれから生み出されたものとしての有(存在)によって徐々に認識されることになる
・単一で、多や分割を免れている
・自分だけであるものであって、何ものもこれに外からくわえられることのないもの
・何ものをも欲しない
・物量ではない
・全きままに止まって、同じ状態をつづけている

 

スピノザの「神即自然」、老子の「タオ」を重ね合わせながら読んでみたものの、二番目の「場所のうちになく、時間のうちにないもの」という明示的な表現が、読み手に厳しい判断を迫ってきている。さて、どうしたものか。

「場所のうちになく、時間のうちにないもの」ということは時空の認識の枠組みを超えているということである。時空の認識の枠組みを超えた「一なるもの」から認識するものとしての人間と、認識されるさまざまな「有(存在)」が「流れ出る」。流出する。

これを二一世紀に生きるものがどう解釈すべきか。現在の物理学では真空という場は静止しているものではなく、物質の生成と消滅を繰り返しているということが言われている。それは、真空という場、どこにでもある場の事象であり、多くの科学者が認める観測結果として提示されているのであるから、べつに驚くにはあたらない。そういうものだと飲みこむことは可能だ。現在観測されていない暗黒物質や暗黒エネルギーも観測されないながら観測対象として想定されているところで、べつに問題はない。すべてはこの世界のなかでの物理的な事象であるのだろう。ビッグバンモデルの宇宙像では、この宇宙の地平内のことは、大体人間の観測対象として知的に取り込める。ただ、「場所のうちになく、時間のうちにないもの」はビッグバン以前の何ものか、「認識は困難」というか観測対象外のものであるはずで、何と名付けてもとらえようのないものであるだろう。天才物理学者ファインマン先生であれば、物理学の対象外と明確に答えてくれる何ものかだ。観測や判断の対象外物のについては意図的に、判断停止を宣言すればそれはそれで済むと私は思う。プロティノスの言説も、物理学的に解釈すればそこでおさまりがつくのだが、「一なるもの」は「場所のうちになく、時間のうちにないもの」であるが「善なるもの」であると価値判断の根拠に持って来られると、一気に戸惑う。スピノザも神の無限の属性のうち人間の精神が捉えることができるものは思惟と延長といっていて、延長は時空の別の言い換えであるから問題なくても、思惟のほうはなんだか一読者としておさまりが悪い。思惟については物理法則のようなものであろうと思っているし、心身並行論も身体(延長)優位の解釈で何とか腑に落ちているところがあるので、「無限の実体」(スピノザ)や「一なるもの」(プロティノス)が価値判断のベースにされ、さらにそれをベースに論理を展開されるとついていくのに努力を要する。スピノザは「コナトゥス」によって事物の存続にかかる良い悪いの判別の提示にとどまるが、プロティノスはあからさまに善悪を持ってくるので、やはり違和感がある。この違和感がたぶん重要なのだろうと考えて読みすすめていくほかない。

本日は、午前中にのうちに外出するため、図書館から借りた古いハードカヴァー本は持ち出し読みすすめるのは困難になる。早めに区切りをつけて、手持ちの文庫本に切り替えようと思い、ここで区切りをつけた次第。