1937年治安維持法違反によって検挙される以前の反ファシズムの同人誌、雑誌に発表された論文が多くを占める。時代的なものと京大周辺の研究者を対象読者層としているところから、その表現は熱いが硬く、なかなか読み取りづらい文章である。参照しているドイツ語の文献、概念が訳なしで出てきたりもするので、全部理解しようとするとハードルが高い。ただ、ある程度後期の文章を先に読んでいれば、主張の核の部分にそれほど変化はなさそうなので、調査検索しながら読まなくても全く歯が立たずにいやになるということはない。戦前のいちばん重要と思われる「委員会の論理」を中井正一の全体の活動のなかでよりよく読めるように、まずは全体を通読してみようくらいの気持ちで読んだ。どちらにしろ一度読んだくらいでは中井正一がドイツ系の哲学や美学をいかに咀嚼し自分なりの理解と論理を組み立てていったかは詳細には分からないのだから、難しく感じたら、岩波文庫の『中井正一評論集』を読むか、全集の2巻、3巻の戦後の一般層に向けて書かれた読みやすいものを読んで、慣れていくというのも手だ。
ヘーゲルのいわゆる主体性について最も注意すべきは、分裂そのものが、意識の運命であることである。そして自意識的な主体、すなわちみずからをみずからの対象とすることのできる自立性と自由性は、この分裂の基礎的契機となることである。主体性とは、実体性に対立することにおいてその明瞭なすがたをあらわす。実体性、すなわちピストルの弾のごとき一度の発射の契機が無限の運動をになっているのではなくして、弁証法的主体性では、自らの否定を媒介として、対立契機の中に、常にみずからを規定しつつ発展する過程 process である。常にみずからの崩壊と再建に臨んでいる無限な危機的契機である。ここでは一つの基体は常に二つに分裂して、妥協することなく、連続することなく、その対立の媒介において自らを規定するところの、安らう場所なき発展と緊張である。否定を媒介とするところの党派的契機が、この主体性のどうしても忘れることのできぬ自己規定でなければならぬ。これを実践的主体性と名づけたいと思う。
(Subjektの問題, 『思想』,1935.09 p44 太字は実際は傍点)
第1巻を読んでの印象は、反ファシズム的といわれるような主張が直接的に感じられる文章があまりないような気がするということだ。木下長宏の評伝『[増補] 中井正一 新しい「美学」の試み』でも、中井の検挙は特高の内部ですら無理筋だと思われていたような記載もあるので、論文執筆の重点は政治思想よりも理論的完成形を目指す方にあったのだろうと思う。
【付箋箇所】
18, 24, 34, 42, 44, 112, 114, 133, 134, 154,192, 269, 431, 438
※岩波文庫掲載論文部分は除く
収録作品データ:
模写論の美学的関連, 『美・批評』, 1934.05
Subjektの問題, 『思想』,1935.09
委員会の論理, 『世界文化』,1936.01-03
さまよえるユダヤ人,『カスタニエン』(京都大学ドイツ文学会編集) 1936.10,
合理主義の問題, 『学生評論』,1937.03
感嘆詞のある思想, 『学海』,1945.03
機能概念の美学への寄与,『哲学研究』 ,1930.11
機能概念の美学への寄与, 『美・批評』,1930.09
言語, 『哲学研究』, 1927.09, 1928.04
発言形態と聴取形態ならびにその芸術的展望, 『哲学研究』, 1929.02
意味の拡延方向ならびにその悲劇性, 『哲学研究』, 1930.02
カント第三批判序文前稿について, 『哲学研究』, 1927.07
カントにおける中間者としての構想力の記録, 『哲学評論』, 1949.03
三木君と個性, 『回想の三木清』所収, 1948.01
戸坂君の追憶, 『回想の戸坂潤』所収, 1948.10
回想十年, 『哲学研究』, 1951.02
書評 9篇
スポーツ気分の構造,『思想』 , 1933.05
スポーツの美的要素,『京都帝国大学新聞』, 1935.05-06
スポーツ美の構造,原稿 , 執筆年月不明