仲正昌樹、30歳を越えて提出した長大な修士論文をベースにした著作。院試失敗や統一教会への入信脱会など起伏が大きい経歴を経ての著述。自身のこだわりをあまり表面には出してこないが、研究対象に対して妥協することなく調査している姿勢がうかがえて、大変興味深い。広範囲にわたる論述対象について関心を集中させずにバランスよく見取り図を描くことに労力を注いでいる傾向がみられる。ドイツ観念論からドイツロマン派にいたる無限に冪乗化する自我についての思索を、現代フランスのポストモダン思想につながるものとして丁寧に検討評価しているところは、約30年たった今でも大変参考になる。
記号による表象体系としての言語や芸術が不可避的に共同体的・歴史的な偏りを帯びており、その偏りを伴って人間の心身に影響を与えており、そのため、「正しい表象/偽りの表象」の厳密な区別をすることはできないことを、本格的にテーマ化したのは、ヘルダー以降のドイツの思想家・文学者たちである。言語を中心とする各種の表象体系を利用する「哲学」自体も、表象の特性から自由ではなく、表象的な揺らぎの中で営まれるものであることを、フィヒテの知識学を批判的に継承・敷衍する形で明らかにしたのは、初期ロマン派の功績だ。哲学そのものにコミットしたとは言えないティークやブレンターノ、ホフマン等も、「理性的な思考」の媒体依存性という思想を彼らから学び、実践したと言えるかも知れない。「ドイツ・ロマン派」が、フランス系の現代思想、無意識の領域を映し出す記号や匿名のエクリチュールに焦点を当てる思想の系譜に影響を与え続けているのは、媒体をめぐる問題の領域が彼らによって発見されたからである。
(「増補新版あとがきに代えて」p462 )
作品社の入門講義シリーズなどで積極的に「文系的教養」の普及増進を図っている現在の仲正昌樹の思索活動のおおもとになるこの研究は、著者の中心的な関心領域が奈辺にあるかを知れて興味深い。また、修士論文としてはかなり大きな論考で、研究者としてはじめからかなりの知的体力を持った人物だったのだなと感心できる。専門的に思索を重ねていく人がどのくらい読みどのくらい書いていかなければならないかが想像できて少し怖くもなる一冊で、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、シュレーゲル、ノヴァーリスからベンヤミンの研究、そしてデリダの差延へと延びている思索の道を、若くて無名時代の仲正昌樹と辿っていける。
読み終えた後は何かしらまた新たなものが読みたくなるので、読書案内としても優れている。
【付箋箇所】
2, 3, 19, 22, 39, 51, 66, 69, 71, 109, 154, 170, 176, 179, 201, 208, 221, 251, 262, 270, 272, 287, 293, 304, 319, 406, 410, 413, 416, 424, 428, 447, 453, 462
目次:
1 フィヒテの〈反省〉理論の受容
2 初期ロマン派のフィヒテ哲学からの離脱
3 初期ロマン派の脱近代的性格
4 哲学的言語と詩的言語
5 反省の媒体としてのポエジー
6 〈テクスト〉構築の意味
増補1 〈絶対的自我〉の自己解体―フリードリヒ・シュレーゲルのフィヒテ批判をめぐって
増補2 フリードリヒ・シュレーゲルの詩学における祖国的転回
増補3 シェリングとマルクスを結ぶ「亡霊」たちの系譜
仲正昌樹
1963 -