読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

谷口江里也『ドレのロンドン巡礼 天才画家が描いた世紀末』(ドレの原作 18872, 講談社 2013)

地上に縛られることのない高貴さの象徴としての天使の素足と地上で虐げられた生活を強いられていることの悲惨さのあらわれとしての貧民の靴を履けない裸足。その両極の間に、貴族上流階級の着飾った姿に履かれるブーツ(女性は衣装のため靴は見えない)と労働者階級の履くかさばった靴があって、版画に描かれた人物たちの足もとを見ていくだけでも階級間の大きな差異が印象に残る。産業革命後の資本主義経済拡大期で社会的にも近代化におおきく舵を切った激動の1870年代のロンドンの情景を、上流階級の歓楽の様子からスラム街やアヘン屈の危険地帯まで、4年のロンドン滞在のうちに実際に自分の目でみたものの印象を、あざやかな表現技巧のうちに写し得た貴重な資料であり芸術作品を集めた一冊。ロンドン初版時にドレの版画とともに掲載されていた当時活躍していたジャーナリストの文章に変えて、21世紀の日本や世界の状況にもかなった文章を谷口江里也が全面的書き直していることも、ドレの作品に新たな命を吹き込んでいるように思えた。ドレによって描かれたロンドンに生きる人々の姿から、ルールやゲームなど一定の制約のもとでフェアな精神で競技することに秀でた英国人気質というものを指摘しているところと、公正を目指しながらも目を覆いたくなるような格差が生じ解消されることがない現実の非情さに合わせて目を向けているところに作家谷口江里也の力量の一側面があらわれている。また、都市設計や建築物などに向ける視線にも建築家でもある作者ならではの鮮烈さが感じられる。
神曲』や『聖書』や『失楽園』などの古典作品、ラ・フォンテーヌやシャルル・ペローの昔話の世界を木口木版画という手法で描きつづけることをライフワークとしたドレの画業のなかにあって、本書に収められた作品の数々は、実景を観察して表現されたことが大きく影響しているのだろう、人々の表情や佇まいがそれぞれ個性的で、その表情や佇まいの裏に情念や生い立ちや現在の地位といったものがそれぞれに重たく控えているようで、表現に強烈なリアリティーをもたらしている。本書の版画は霧や雨の多いロンドンの気候条件や、レンガや木材そして人々のまとう衣装が多くをしめる空間構成であったり、群衆を描くことが多いために比較的遠景であることもあって、白黒のコントラストはそれほどきつくなく、また描線もきびしい直線が少ない。版画家というと実際に彫ることまで本人がしていることと思ってしまうところがあるが、ドレは日本の浮世絵師と同様に版画の下絵を描くことが職業であった。実際に下絵に従って版画を彫るのは彫師ということになる。古典作品との版画のテイストの違いはドレの下絵のテイストの違いばかりではなく、フランスとイギリスの彫師の技術的な違いも多少影響しているのかもしれない。

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【付箋箇所】
28, 30, 58, 61, 70, 85, 94, 140, 170, 172, 174, 181, 189, 266

目次:

序章
第 一 章 ロンドン橋
第 二 章 河岸の活気
第 三 章 船着き場
第 四 章 橋の上から街の中へ
第 五 章 街中が熱狂するボートレース
第 六 章 ダービー
第 七 章 エプソム・ダウンズ
第 八 章 ウエスト・エンド
第 九 章 社交の季節
第 十 章 大修道院の周辺
第十一章 緑の木の葉の下のロンドン
第十二章 動物園
第十三章 ロンドンの日々
第十四章 さまざまな暮らし
第十五章 ビール醸造
第十六章 壁の内と外
第十七章 ホワイトチャペルの周辺
第十八章 市場
第十九章 日々の楽しみ──ロンドンという舞台
終章   ドレの視たロンドン


谷口江里也
1948 - 
ギュスターヴ・ドレ
1832 - 1883