読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

『阿部弘一詩集』(思潮社現代詩文庫152 1998)

フランシス・ポンジュを師と仰ぎ、訳者として日本への導入に功績のあった阿部弘一は、詩誌「貘」を活動拠点とする日本の現代詩人でもあった。1998年に刊行された思潮社の『阿部弘一詩集』には、それまでに刊行された三冊の詩集全篇と第一詩集刊行前後の未刊詩篇9篇、そしてポンジュを代表する詩集『物の味方』から11篇が収録されている。刊行されていた詩集三作の内訳は
『野火』思潮社 1961 20篇
『測量師』思潮社 1987 22篇
『風景論』思潮社 1995 24篇
である。
師と仰ぐポンジュの作風は、言語とイメージの開拓者として五感と想像力を現実世界にはたらかせる実行力に満ちたものであり、地に足の着いた散文的かつ理性的な足場をもって外界と新たな関係を切り結ぼうといる。それに対し阿部弘一の作風は、内面のうごめきに対峙しようとするものが多く、詩を形づくる言葉は譬喩の世界から外に出ることは少ない。フランス的明晰性と日本的感傷性という対比で括られてしまう傾向も、両者それぞれ持ち合わせているであろうけれど、個人の資質によるところがおそらく大きい。
阿部弘一がポンジュに自分のどの詩を見せるだろうかと考えたところでは、比較的感触の似ている『野火』の「形象」あたりを挙げておきたい。

阿部弘一の詩では、詩人の内なる詩霊が感じ見ているであろう世界を、譬喩形象によって組み上げては消し去っている様子が描かれることが多い。いつも明るすぎるか暗すぎるかのどちらか一方で、内面の風景も外界の風景もいずれもよく捉えられない私内部の蠢きに、仮のかたちを与えて耐え凌ぐために詩の言葉が呼び寄せられているようなのだ。詩の言葉は、詩人の批評精神によって厳密に選定され、過剰な抒情が廃され、読み手に自由に観察可能なように整えられてはいるものの、仮の世界が作り出すイメージは冷たく、よそよそしさもあり、なかなか読者を迎え入れてはくれない。詩人自身を裁き律している端正さのなかには、読み手の読みの選別を行っているいる閾のようなものが同時に潜んでいる。閾自体の端正に感心するばかりでは、詩の内的な核の部分には到達していないのであろうという残念な思いがひっそりと堆積していく。

けれども
さらにひとゆらぎして
はじめから私はやりなおす
私は耐えることからはじめる
小さな燭台の上で
(『野火』「雪 ――火の記憶」より)

くりかえし耐えることを支える譬喩形象を、詩人とともにくりかえし生成消滅させることには、静かな歓びもあるものの、そのなかで読み手として自分が関わる現実世界との回路が開けてこないと、煮え切らない不満が残る。ただ、その傾向は制作の年を追うごとに推移していって、第三詩集『風景論』では現実世界に存在する固有名が入り込むようになり、一気に風通しも見晴らしもよくなる。現実の土地の風景、現実に活動した詩人や画家や聖人をめぐって言葉を紡ぐことで、耐え、身を整え、くりかえしの旅を続けることの現実性が増し、読み手側の同伴者感覚も高まってくる。
妻、飼い犬、パウル・クレージュリアン・グリーンの聖フランチェスコ、毛利武彦、ブリューゲル、ローベルト・ヴァルザー、ヴァレリー雪舟道元など。語る詩人と語られる人物たちの間に、読み手は身を滑らせる時空を見出すことがよりやさしくなっている。純粋譬喩形象の世界が湛えていた冷たさは薄れ、血の温かさが感じられる。

現代詩文庫の詩選集刊行後の阿部弘一作品には以下があるという。
『葡萄樹の方法』七月堂 2018
『詩画集・冬の旅』(詩:阿部弘一、絵:毛利武彦)六藝書房 2019
晩年の作品で、どのような展開があるのか興味深い。そしてまた、晩年から青年に遡行していきながら、阿部弘一の詩人としての核心を確かめていくことで、新たな気づきが出てくるのではないかとの期待もいま湧いてきている。


【付箋箇所 a:上段、b:下段】
11b, 37b, 48a, 57b, 61a, 75a, 83a, 86a, 88b, 89b, 94a, 98a, 111b, 132b, 136a, 137b, 144b, 146b, 147b

阿部弘一
1927 - 2022