読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

小笠原鳥類の詩集三冊 ナンセンスのセンス

小笠原鳥類、変な名前の詩人。

21世紀の日本現代詩の世界では無視することのできない詩人であるという認識はあったものの、実際に書店で彼の詩集を手に取ってみると、これはキワモノかという思いに駆られ、自腹を切ることに躊躇したことの記憶がわりと鮮明に残っている。思潮社の『小笠原鳥類詩集』(2016)から推察すると、ここ五・六年くらいのあいだの出来事であるらしい。

今回、読もうと思ったきっかけは、同じ早稲田大学出身の現代詩人岸田将幸による肯定的な言及の記憶と、最寄りの図書館の現代詩のコーナーでの背表紙の存在感の大きさにある。

読もうと思っても図書館にも収蔵されていない作品が多い中で、開架棚から複数作品が訴えかけいるような詩人の著作は、やはり読んでおくべきだと、今回、改めて思った。

読んでしまった後では、読まずにいることが愚かに感じる稀有な詩人であるというように思わせる人ではあるのだが、万人向きかというと、全くそうではない。


並行して読んでいたウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の訳者野矢茂樹の訳注にナンセンスに関する定義と用例がある。

「タマは2で割り切れる」や「白さがポチにあくびをした」のような論理形式に違反した記号列は、ナンセンスと言われる。
岩波文庫 ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』訳注54より)

これは、チョムスキーの『統辞構造論』における意味をなさない文の例としての、「Colorless green ideas sleep furiously(色のない緑の観念が猛然と眠る)」にも通じるもので、世間的な意味はなくても、想像力と判断力の限界に触れる詩的解釈から、論理形式に従順な一般的な記号列に揺さぶりをかけるものである。

論理形式に関する違反であるために、標準的な解釈がなされる世界では積極的に意味を成すことはない言明ではあるが、詩的創造の世界においては論理を超えるものが顔をのぞかせる。

何の問題もない、紫色の映画であったし
動物園は最も安全で、安心できる場所だ
何の問題もない、熱帯魚の図鑑を見ている。
それから、ゾウは野鳥で
パンダは野鳥で、パンダのような色彩の
カモが、野鳥の一種で、あった。
(第四詩集『鳥類学フィールド・ノート』「すべてが野鳥になる」より)


何の問題もないようなところで、何もないところに何かを異物として敢えて確定し、ことさらに強調して、通常結びつかないようなものと強引に結びつけて、責任をとるかというと、責任を回避して、いずこともなく漂いだしてしまうというような詩行。

ナンセンスを作りつつ、ナンセンスが呼び寄せるセンスに期待をかけているような、詩人としての作者のセンス。

意味伝達に従順な通常の構文からは逸れて、無意味に境は接しているようでもあるが、すこし個人的な世界に特化して反省のない閉塞感がある。

現行世界に対して引きこもった感じのある反世界・反論理の世界のままでいいのか?

いいという見解に同調しないでもないが、一定方向へしか向いていない、もしくは、一定方向からしか離れようとしていない運動に対しては、ためらいが生じる。

既存価値への反抗として同じような戦略を20年も取りつづけていることは、敵であるところの既成秩序と、なくてはならぬ共依存の関係に落ち着いてしまっている可能性も考えられる。

おそらくは、論理形式に関わる初期戦略が強烈極まりなく、持続性も極めて大きいがために、既存価値に対しての問いかけになるような各詩行が、あまり警戒心を持たずに反復再生産されているというのが、小笠原鳥類の詩作の実情なのではないかと想像する。

第一詩集『素晴らしい海洋生物の観察』から近作第四詩集『鳥類学フィールド・ノート』に向かうにしたがって、量産可能な特定形式反復が多くなっているような印象があり、読み手としては、すこし不満が蓄積していく流れに流されている感じを感じている。

 


読んだ本:

1.
『小笠原鳥類詩集』(思潮社 2016)

第一詩集『素晴らしい海岸生物の観察』(2004)を全篇収録。後にあまり採られなくなった時空を交叉させる日本語表現形式の混交を詩法として積極的に取り入れている野心作。第二作品集『テレビ』以降のまとまりには欠けているものの、日本語の書き言葉の現在の可能性を、多方面に展開させているところが心地よい。

詩篇は、基本的には論理形式に違反した記述の積み重ねから構成され、通常の言語使用に対して、信用を掘りくずしてしまうような疑いの感覚を醸成している。

小笠原鳥類の発する言葉の特徴は、センスとナンセンスのこまかな往還で、全体としてはナンセンスのセンスを研ぎ澄まそうとしているところにある。特筆すべきは、散文や批評エッセイなども詩と同じナンセンスに重きを置いたスタイルを貫こうとしているところで、著述家としての一貫性を保とうとしている姿勢は稀有であり、単純にすごいと感じるものがある。稀にみるケースで、瞠目に値する作家であろう。著述の方向性としては、カジュアルな異形を目指しているように見受けられる。 珍しく本音が出てしまっている以下の文章からも、異形への嗜好は読み取れるだろう。

万葉集梁塵秘抄、朔太郎や賢治、あるいは吉岡実北村太郎入沢康夫天沢退二郎吉増剛造、などに匹敵する不気味な衝撃を、最近のいろいろな詩人が提示しているので、それを受取らなければならない。
(「青い教室で、さまよう幽霊のように」より)

www.shichosha.co.jp

 

2.
『テレビ』(思潮社 2006)


小笠原鳥類の第二詩集。10篇の詩で構成された著作。『素晴らしい海岸生物の観察』につづく日本語の実験空間。日本語のストレッチ。言葉をほぐして並べかえて繰り返しながらずらしていく。意味を脱ぎ捨てて軽さをまとい、有用性を超えた言語の遊戯的側面を拡張展開している。 あとがきなどでの自己解説もなく、切り上げかたがいさぎよい。

 

3.
『鳥類学フィールド・ノート』(七月堂 2018)

小笠原鳥類の第四詩集。8篇の詩で構成された著作。
強迫神経症を擬態したかのような語り。安心で、安全で、健康で、良い、と繰り返し言い聞かせるような言葉の意味が脱色化されていく。なにも問題はない、怖くはない。図鑑を眺め、テレビや映画を見て、動物園や水族館に出入りし、クラシックを聴き、ロックンロールを聴いて、町歩きの際には犬やネコや鳥に出会ったりもするが、生身の人間との交流はない。なにも問題ない、怖くはない。それはそうかもしれないのだが、過剰な安全志向、健康志向が描かれていて、その精神状況と言語世界はうっすらと不穏な色に染め上げられている。

www.shichigatsudo.co.jp

    
小笠原鳥類
1977 -