読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

星野太『美学のプラクティス』(水声社 2021)

主著『崇高の修辞学』(月曜社 2017)から4年、2010年から2019年までのあいだに発表してきた単独の論文やエッセイを「崇高」「関係」「生命」という3つのテーマのもとに集めてリライト・再編集して出来上がった美学論集。芸術作品そのものを語るよりも、現代美術をめぐる言説についての紹介と検討が中心の書物なので、芸術論集ではなく美学論集。

掲載されている図版はモノクロームで13点。それぞれ異なる作家の代表的作品のなかでもこだわりのある選択をしている様子が感じられる(例えばジャクソン・ポロックの作品としてはポロックのなかでは異質な感じの晩年の作品「The Deep」が採られている)し、現代美術に詳しくない人間には目新しい第Ⅱ部のソーシャル・プラクティスやリレーショナル・アートのような実践するアートも紹介されているが、作家や作品に向かうよりも、当たり前のことだが論考の中心にある理論家のほうに関心が向く。
本書で私が作家に関心が向いたのは、自身も理論的著作『崇高は今』をものしているバーネット・ニューマン(図版なし)であり、浅田彰との対談で自身の創作を数学と絡めて語ったという池田亮司(図版あり)の二人で、作品自体の力よりも、あまり詳しくは語られていない創作理論についてもう少し知りたいと感じたからだ。

本書で論じられている主な理論家は、カントやバークなど古典的なところを除くと、ジャック・ランシエール、ロバート・ローゼンブラム、クレメント・グリーンバーグ、ニコラ・ブリオー、ボリス・グロイス、グレアム・ハーマンといった20世紀後半から現在まで活発に発言を繰り返している批評家であり美学者である。ロンギノスを柱とした詩学・修辞学が中心の『崇高の修辞学』で取り上げられた人物と重ならないところは新鮮でもあり、少し惜しくもあるが、きっと繋がっているはず。なかでも、政治と美学の関係を考察するジャック・ランシエールと、人間中心の倫理学よりもあらゆるものコミュニケーションを検討する美学の優位を説くグレアム・ハーマンについては、本人の著作に手を伸ばしたくなるような紹介であった。

プラトンは、職人たちがポリスという政治空間に参与することを認めることはなかった。なぜか。職人たちには各々従事すべき仕事があり、政治談議のためにその持ち場を離れることは許されないからである。
(「リレーショナル・アートをめぐる不和――ジャック・ランシエールとニコラ・ブリオー」より)

著者によるとランシエールギリシアのポリスにおける政治の核心が感性的なものの再分配であること、すなわち美学は政治の問題であるということを強調しているらしい。政治が市民化大衆化されたとはいえ、労働者として仕事を持つ者は古代ギリシアとだいたい同じで、本格的に政治に参加することはできないし、美学の問題にも本格的に入っていくこともできない。資質も関係するだろうが、何しろ、時間と資金が極端に制限される。それでも、関心を持ったことにはできるだけかかわりたいと思うのが人間というもので、細々とでも感性を養っていきたい。

 

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【目次】
序論 美学、この不純なる領域 
第Ⅰ部 崇高
 カタストロフと崇高
 戦後アメリカ美術と「崇高」――ロバート・ローゼンブラムの戦略 
 感性的対象としての数――カント、宮島達男、池田亮司 
第Ⅱ部 関係
 ハイブリッドな関係性 
 ソーシャル・プラクティスをめぐる理論の現状――社会的転回、パフォーマンス的転回
 リレーショナル・アートをめぐる不和――ジャック・ランシエールとニコラ・ブリオー
第Ⅲ部 生命
 生成と消滅の秩序 
 生きているとはどういうことか――ボリス・グロイスにおける生の哲学
 第一哲学としての美学――グレアム・ハーマンの存在論


【付箋箇所】
15, 32, 85, 102, 113, 128, 140, 147, 155, 185, 194, 212, 216, 220

星野太
1983 -