読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ポール・エリュアールの詩集二冊

バシュラールの想像力に関する著作に多く引用されていたことがきっかけでエリュアールの詩集を読み返してみた。

ダダでもシュルレアリスムでもブルトンとともに中心的な人物であったポール・エリュアールではあるが、彼の詩は奇矯なものでも過激なものでもなく、日本語訳で読んでもどことなく端正さを感じさせる、愛と自由をえるための華麗な闘争の記録というおもむきがある。

今回読み直したのは思潮社の安東次男訳『エリュアール詩集』(1969)と土曜美術社の高村智訳『ポール・エリュアール詩集』(1983)。安東次男訳のほうは、エリュアールの最晩年の自選詩集をベースに編集翻訳刊行されたもので、どちらかというと三人の妻とその他の女性との恋愛をうたったものが多くとられていて、高村智訳のほうは、訳者がエリュアールの多くの詩集のなかから各時代における代表作をまんべんなく拾い上げていったアンソロジーで、政治的な主題をあつかった詩作品の比率が少し高くなっている。訳しかたにも違いがあり、一人称がいっぽうは「ぼく」でもういっぽうは「わたし」、いっぽうが訳者の解釈が入った大胆な翻訳でもういっぽうが原詩の語彙に従って忠実に訳した穏当な訳、語感についてはいっぽうがより柔らかくもういっぽうが少し硬い印象をうける翻訳となっているようだ。安東次男は東京外国語大学教授でもあったがそれよりも同じ詩人としてエリュアールの詩を日本語にうつしかえているところがあり、日本語表現を原詩の逐語訳から多めに変えているところに関しては、訳注で逐語訳表現とあわせて説明をおこなっている。高村智は東京都立大学教授でシュルレアリスム周辺に位置する詩人の研究が専門で、編訳書はフランス文学者として日本へのエリュアール導入に配慮をきかせた手堅い翻訳で、訳注なしで成立させている。同じ作品でも訳者が違うと改稿された二つのバージョンとして読めたりするところも面白い。
『ドイツ軍の集合地で』に収められた「戦う七つの恋愛詩篇」は安東次男訳と高村智訳の違いがよくあらわれている詩作品のひとつ。対独協力派のフランス人と対独抵抗派のフランス人をともにうたった詩の一節。


【高村智訳】『ドイツ軍の集合地で』「戦う七つの恋愛詩篇」部分

かぎりのない悪の恥辱
われわれの不条理な処刑者たちの恥辱
つねにいつも同じひとびと つねにいつも
じぶんみずからをいつくしむ 同じひとびと

 

死刑者たちの列車の恥辱
ことばの恥辱 焼かれる大地
だが われわれは われわれの苦痛を恥じはしない
だが われわれは 恥じることを恥じはしない

 

【安東次男訳】『ドイツ軍の逢引の地で』「戦争の七つの愛の詩」部分

際限のない 悪を恥じ
十年一日のように
自分の身しか念頭にない
血も涙もない 兄弟を恥じ

 

死刑になる 兄弟を恥じ
焦土という ことばを恥じ
だがぼくらは恥じない ぼくらの苦痛を
ぼくらは恥じない この恥を持つことを

 

翻訳調のつよく出ている高村智訳と日本語詩となることを意識している安東次男の詩。比べながら読むことができるのが、原詩では味わえない翻訳詩の味わいのすぐれた一面であろう。詩のことばが向かっている方向について複数の解釈がみえるのもよい。原詩が読めなくても想像力が刺激される。

 

ポール・エリュアール
1895 - 1952
安東次男
1919 - 2002
高村智
1925 - 1998