読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『観念の冒険』(1933 Adventures of Ideas, 中央公論社 世界の名著58収録の抄訳)

全体の三分の一程度の抄訳なので、ホワイトヘッドの科学哲学者としての側面の入門として気軽に読んでみる。ちょっと齧った感じでは、なんとなくヒュームの影響が強そうだ。イギリス経験論の系統にもつらなるのかも。

農業は、近代的文明への決定的な第一歩をしるしています。農業の導入は、事件の経過に対する高度な反省の段階がやってきたことをしるしづけているのです。農業では、何ヵ月も前から自然の経過を予測することが必要です。(中略)農業は、部族を、全般的な当然の成りゆきに黙従していた状態から、身を下して、一つ一つの細部に能動的関心を持つように強いました。それは部族に予備対策を探索するようにさせたのですが、発見には理解が必要です。(第二部第七章「自然の法則」4)

自然の経過に従う狩猟採集の生活から、計画的な農民の生活への変化が過去にあった。現在の言論界では、生活がより容易であったのは狩猟採集民の世界だという意見がかなり出ているけれども、資本主義下の賃金労働者は農地を持たない農民のようなもので、将来を愁い不安を持ちながら自分を耕しつつ暮らさざるを得ない。将来を思うがゆえにおこる不安は、死なないための予防策として社会全体に染みついてしまったものと諦めて、狩猟採集の世界の生活をときおり夢見つつ、心身にかかるコストを調整しながら生きるというのが一般的なところではないか。ただ間違ってしまってはいけないことがひとつ。より労力を求められない狩猟採集民は、労働者集団というよりは共同経営者集団に近いもので、雇用者感覚ではずっと参加してはいられないということ(ホワイトヘッドの主張とは関係ないけど)。体力がなくても、燻製や発酵の知恵、可食や季節感に関する知恵など、グループ運営に責任を負う立場にいると示すこと、もしくは、娯楽や安心を波及する位置にあることを示すこと、受動ではなく主動の意を示すことが狩猟採集の世界ではより必要ではないかと思われる(これもまた、ホワイトヘッドには関係なく、令和日本の中年男の思念の投影に過ぎないけれど)。経営のコアにいない使用者の権利主張のあつかいは、組織存続にかかわる危機に出会えば、たとえ狩猟採集社会であろうと、どうしたって後まわしになる。


他には、こんな記述も。

結論は次のようであると思われます。すなわち、「自然」は、たまたま私たちが関心を持つような「法則」のことばでもってする解釈を許すものだ、ということです。(第二部第八章「宇宙論」8)

自然おそるべし。深すぎる懐。汲み尽くせぬ不思議。

「自然の法則」の可能なさまざまの型に関するこの議論は、哲学の議論をしている間はいつも心にとどめておくのが重要であるような、三つの区分に注意をひきます。すなわち、次のような三つのものです。――(1)すべてことばに表すに先立って、私たちが享受しているなまの直観、(2)こうした直観をことばに表わす場合の言語の様式、および、こうした言語の定式からの論証的演繹、(3)純粋に演繹的な科学で、これまで発達してきた結果、その扱う可能な諸関係の組織が、文明的な意識にはなじみぶかくなっているといった一団の科学。(3)の項の諸科学は、経験の奥ぶかいすみずみの探求へと注意を向け、そして、(2)の項に属する言語の定式を与えるのにも資するものです。科学におけるおもな危険は、不十分な言語の定式からの論証的演繹のために、なまの直観が、あからさまな留意を受けることができなくなるということにあります。事実、抽象的諸科学は、言語の不十分さの及ぼす悪い効果と、その結果、言語が十分なものであることを前提するような論理のはらむ危険を匡正するのに役立つものです。(第二部第八章「宇宙論」10)

科学哲学をさらに読んでいくには、これまでの科学の論証の歴史、科学が用いてきた言語と記号の歴史をある程度頭に入れておく必要があるなという感じを持った。不思議にかかわるには準備が必要。


ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
種山恭子
1931 - 1995